『 十字架によって敵意を滅ぼす 』

2018年8月5日(日) 平和主日礼拝
エフェソの信徒への手紙2:14-22

本日は平和主日、また前橋空襲の記念日でもある。前橋教会も73年前の空襲で礼拝堂を焼失した。教会の歴史の中で最大の危機とも言える被害体験である。

先日、その空襲の資料などを展示している市内の資料館を訪れた際に、詳しく説明して下さった方が言っておられた。「広島・長崎の原爆をはじめ、民間人の上に爆撃をすることは国際法違反である。しかしその命令を下した司令官は裁かれず、むしろ昇進している。結局『勝てば官軍』、日本は戦争に負けたのがいけなかったのですよ!」。その言葉に心の中で「いやいや、日本が勝てばよかったという話ではないでしょう」とつぶやいた。

戦争の悲惨さを後代に伝えるために、被害の苦しみ・悲しみを語ることも大切だ。しかし日本の戦争の歴史には、被害の側面だけでなく、加害の側面もある。それを見つめるという「気の進まない営み」も大切にすべきだと思う。

「ノーモア・ヒロシマ」という言葉に「リメンバー・パールハーバー」という反論が来る。しかし本来両者は対立するものではないはずだ。「平和のために、真珠湾も、広島も忘れるな!」と。

今日の箇所で、パウロは「キリストこそ我々の平和である」と語る。今日は特に「十字架において敵意を滅ぼす」という言葉に注目したい。

十字架の出来事とは歴史的に見れば、反逆者(イエス)に対する、国家による報復・処刑である。しかしパウロはそこに一つの意味付けを加えた。「十字架によって人間の罪が贖われる」という解釈である。

罪の赦しを得るユダヤ教の儀式では、毎回犠牲の生け贄がささげられた。しかしイエスが自分の身を永遠の犠牲として献げて下さったことによって永遠に罪の赦しが与えられる、ということである。私たちは、「十字架によって敵意を滅ぼす」というパウロの言葉を、この「罪の赦し(贖い)」というイメージにおいて読み解くことができるのではないか。

私たちは時に他者に敵意を抱く。被害体験を持つ場合、その思いはより大きなものとなる。このような敵意は、自然の成り行きにまかせていたのでは、なかなか消え去ることはない。しかし一方で、自分が誰かを傷付けてしまったことは案外簡単に忘れてしまうところがある。人の足を踏んだ方は忘れてしまうが、踏まれた側は忘れない、ということである。

イエスはそんな私たちに「人の目にあるおが屑よりも、自分の目にある丸太に気付きなさい」と教えられる。私も、あの人も、同じ罪を犯した人間、神の赦しを受けねばならない者同士なのだ… そんな視点に立つところに「十字架によって敵意を滅ぼす道」が開かれるのではないか。そしてそのような道を歩みたいと願うならば、まず自らが自分の罪を認めることから始める必要があるのではないか。

こどもたちの、けんかの仲直りの作法が教えてくれる。仲直りのためにまず自分がなすべきこと、それはまず自分が「ごめんなさい」を言うことである。

前橋教会も属する関東教区では、長い議論の末に「日本基督教団罪責告白」を定めた。まず自分が神の前にへりくだることから始め、敵意を十字架によって滅ぼす道を求め、平和を作り出す歩みに加わってゆく… そんな思いを込めて作られたものだ。この罪責告白のリタニー(連祷)を一同でささげたい。

 

関東教区「日本基督教団罪責告白・リタニー」

司式者:神よ、わたしたちは日本基督教団が成立とその歩みの中で犯し続けてきた罪責を告白いたします。

会衆:主よ、憐れんでください。

司式者:わたしたちの教団は1941年6月24日、30余派の福音主義教会の合同によって成立しました。教会合同は日本の教会の早くからの願いでした。しかしこの合同は当時の戦時下の宗教統制の国策に屈したものでした。

会衆:主よ、憐れんでください。

司式者:その中でわたしたちの教団は、唯一の神、唯一の主キリストへの信仰を告白しつつ、天皇を神とし、天皇を中心とする国家に奉仕する教会となりました。主の民であることよりも天皇の臣民であることを第一とした「日本的キリスト教」の過ちに陥りました。

会衆:主よ、憐れんでください。

司式者:わたしたちは礼拝において神を賛美しつつ、「君が代斉唱」、「宮城遥拝」などの「国民儀礼」を行いました。戦争の勝利を祈り、「大東亜共栄圏の建設」を神の国の実現としました。

会衆:主よ、憐れんでください。

司式者:わたしたちは天に国籍を持つ「神の民」であるにもかかわらず、朝鮮半島や中国、台湾をはじめとするアジアの隣人と教会に、そして在日の隣人と教会に、天皇を礼拝することを強要し、アジア侵略の戦争に加担・協力しました。

会衆:主よ、憐れんでください。

司式者:わたしたちは同じキリストの体につながっていながら、旧6部・9部の教会を支えず、見捨て、教師籍を剥奪し、国家による教会解散を黙認しました。

会衆:主よ、憐れんでください。

司式者:わたしたちは敗戦後、神の前に罪を悔い改め、再出発をすべきでした。しかし同じ体質を保持し、九州教区沖縄支教区であった沖縄の教会を抹消しました。1969年2月25日沖縄キリスト教団との合同が実現しましたが、沖縄の人々と教会が受けた戦禍と、戦後の苦しみを、自らのものとして受けとめませんでした。

会衆:主よ、憐れんでください。

司式者:かつて1967年3月26日復活主日に、鈴木正久教団議長名で出された「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」はアジアの諸教会への謝罪表明として大きな意味がありました。しかしわたしたち教団の罪責は戦争責任だけでなく、教会のあり方全般に関わるものであり、何よりも神の前で懺悔告白しなければなりません。

会衆:わたしたちは神の前に教団の罪責を告白し、主の赦しを乞い求めると共に明日に向かっての決意を表明いたします。主よ、憐れんでください。

司式者:今日、日本を再び戦争のできる国にしようとする国家主義の流れが強くなっています。

会衆:わたしたちは主の前に日本基督教団の罪責を告白することで、主にあってひとつになり、明日に向かっての使命と責任を果たし、共にキリストにある和解と平和の福音を宣べ伝える教会の使命に仕えることができるように、主の助けと導きを祈ります。

一同:主よ、憐れんで下さい。アーメン。