『 正義と不義とが争うところ 』

2018年8月19日(日)
イザヤ5:1-7,マルコ12:1-12

8/15,嶺公園で行なわれた「群馬県原爆被害者慰霊式」で、昨年国連で採択された「核兵器禁止条約」に対し、唯一の被爆国である日本が賛成票を投じず、これを批准しなかったことについて、関係者は口々に批判しておられた。沖縄・辺野古では、県民の多くの反対の声を押し切って、新基地建設が進められている。「現実的判断」という言葉のもとに、平和を願う人々の思いに逆行することが実行されていく…私たちはそんな時代に生きている。

神が世界を造られた時、「見よ、それは極めて良かった」と言われ祝福された世界。神のシャローム(平和)に包まれた世界。それを人間はまったく違う形に作り変えてしまう。神の願いと人の思いとはしばしば相反する。まさに世界は「正義と不義とが争うところ」(讃美歌511-1節)である。

イザヤはそんな神と人との関わりを、ぶどう園と農夫の姿で語る。よいぶどうが実ることを願ったのに、できたのはすっぱいぶどうだった。これは神とイスラエルとの関係を表している。神は「裁き(ミシュパト)を待っていたのに「流血(ミスパハ)」。「正義(ツェダカ)」を待っていたのに「叫喚(ツェアカ)」。そのようにして神の願いに次々に背いたイスラエル。イザヤは「神はこれを裁かれる」と厳しい言葉を語り、アッシリアによる北王国の滅亡を予言するのである。

イエスのたとえにもぶどう畑が登場する。ぶどう園の主人(神)は農夫(宗教指導者)にぶどう畑(イスラエルの民)の世話をさせる。ところが農夫たちは収穫をひとり占めし始める。主人は僕(預言者)を送り、収穫を収めさせようとするが、農夫たちはこれを追い返したり、痛めつけたり、殺したりする。主人は最後はひとり息子(メシヤ)を遣わす。すると農夫たちは「こいつを殺せばぶどう園は自分たちのものだ」と思い、息子を殺してしまう…。

イエスはご自身のこと(受難)を語っておられるのだろうか?そうなのかも知れない。「殺される息子」とは、十字架の出来事を表しているのかも知れない。

しかし物語はここで終わらない。主人による報復、すなわち神による裁きが語られる。そして詩編118編に記された不思議な言葉をもってこのたとえを締めくくるのである。「家造りらの捨てた石が、隅の親石となった。それは主がなさったことで、人の目には不思議に見える」。正義と不義とが争う現実の中で、神は決して人の不義を見過ごしにはなさらないことを語られるのである。

イザヤの時代、イエスの時代だけでなく、私たちの生きる現代にも、正義と不義とが争う現実がある。「それはそれで仕方ないさ。現実はそうなんだから。現実的判断なのだから…」そんな風にうそぶきたくなる誘惑が常に立ち上がる。

しかしそんな時は思い起こそう。神さまの思いはどこにあるのか、神はこの不義を見過ごしにされるのか、と。イエスがいまここにおられたら、この正義と不義との争いの中で、どのように振る舞い、行動し、発言されるのか、と。そしてその思いに突き動かされて、私たちも自分に出来る小さな一歩を踏み出すことのできるものでありたい。

先日の慰霊式で、ひとりの方のあいさつの言葉で「今年は戦後73年、いろいろあったが、この国は73年間戦争を行なわずに歩んできた。これを『戦後100年』『戦後200年』と言えるような歩みを、みんなで作り出して行きましょう。」共感をもってこの言葉を受けとめた。その式典の中で、請われて歌った歌を、いまここでもう一度歌いたい。
♪『ヒロシマのある国で』

八月の青空に 今もこだまするのは
若き詩人の叫び 遠き被爆者の声
あなたに感じますか 手のひらの温もりが
人のくやし涙が 生き続ける苦しみが
わたしの国とかの国の 人のいのちは同じ
このあおい大地のうえに 同じ生を得たのに

ヒロシマの有る国で しなければならないことは
ともるいくさの火種を 消すことだろう

(山本おさむ 作詞・作曲)