2018年9月16日(日)
創世記5:21-24,Ⅱコリント12:7b-10
70歳を超えて活躍を続けるアーティストたちがいる(小田和正、矢沢永吉、P.マッカートニー)。飛び跳ねて演奏するその「若さ」には驚くばかりだが、ちょっと「無理をしている、痛々しい」と思わないわけでもない。そんな中、年老いていく自分の容姿を取り繕うことなく、さらけ出して活動している人がいる。沢田研二(ジュリー)である。
かつてファンの方の熱弁を聞いたことがある。「ジュリーは若ぶらない、過去の栄光にすがらない、それがいいのよ!」と。年と共に腹が出る、髪が白く薄くなる、その人間の「自然な姿」を隠すことなく振る舞うのが「ステキ!」ということらしい。
「いつまでもお若いですね」と言われて、うれしくない人はいないだろう。しかし…そのようにして若さを維持し、無理して演じようとすることは、実は知らないうちに悪しき価値観の蔓延に加担しているのかも知れない。それは「若いことがいいことで、年老いることはダメなことだ」という価値観である。
「自分の歳を恥じることは、神さまを恥じることだ」と言った先輩牧師がいた。歳を取れば確かに肉体や知力が衰えてゆく。しかしそれは、それだけ神さまの恵みを受け続けた成果でもあって、祝福されることなのではないか。
強さを誇る社会、発展・拡大こそ価値あるものだとうそぶく社会では、そのような理屈は通用しないのかも知れない。しかしイエス・キリストの福音が根付いている世界では、それはひとつの理想であり、真理であるのではないか。「弱さ」を切り捨てず、むしろその弱さを絆に共に生きる世界である。
パウロは「私は弱い時こそ強い」と語る。けれども彼はすぐにそのような心境になれたワケではなかった。持病に苦しみ、それが無くなることを何度も神に祈る日々。しかしその祈りの末に彼が受けたメッセージは「(神の/キリストの) 力は弱さの中にこそ働く。」というものだった。その力が注がれることを信じるが故に「弱さを誇ろう」と語るのである。
年老いるということ。それは様々な弱さが忍び寄ることである。もちろんある程度の機能の維持に努めることも大切だが、その弱さを決して恥じる必要はない。むしろその弱さが人を結び付け、そしてそこに神の(キリストの)力が宿る。その意味でそれは祝福されたことなのだ…そう受けとめたい。
800~900歳代といった長寿の人々の系図が記される創世記の中に、一風変わった最期の姿が描かれる人物がいる。「エノクは神と共に歩み、神が取られたので、いなくなった。」それはある意味で、最後まで神の導きに委ねて生きた究極の信仰者の姿と言えるのではないか。私たちも「神が取られる日」に至るまでの歩みを、一歩一歩決して恥じることなく、豊かに「老いを生きる」者でありたい。
(恵老祝福礼拝)