『 ひとつになろう、手をつなぎあおう 』

2018年10月7日(日) 世界聖餐日礼拝
ダニエル3:13-18,使徒言行録5:27-32

ちびまる子ちゃんの劇場版アニメ『イタリアから来た少年』のポスターに「友情に国境はな~い!」という言葉が記されていた。この映画を「国際化教育」の面で文科省が後援していたのだが、このポスターにある国会議員がクレームをつけた。「国際社会は国益を巡る闘いの場。『国境はない』などと教えるのはけしからん!」ということらしい。

あまりにも的外れな言いがかりで思わず笑ってしまうが、それで済ませるわけにもいかないものをも感じる。「ナショナリズム(国家主義・国粋主義)」。人と人を国籍や民族で区分けし、ひたすら自分たちの優位性を声高に主張する意識がいま世界中にじわじわとはびこり、支持を広げつつあるのを感じるからだ。

今日は世界聖餐日。世界中にある主にある兄弟姉妹が一致を求めて共に主の食卓を囲む日だ。まる子ちゃん風に言うならば「聖餐に国境はな~い!」ということである。同じイエスを信じる者が国籍・民族・文化の違いを超えて共に生きる。それは私たちの理想とする「神の家族」としての教会の姿である。

その世界聖餐日の礼拝に与えられた聖書の箇所は、いずれも強権支配的な人々により弾圧を受ける信仰者の姿が記された箇所である。ダニエル書。バビロニア王・ネブカドネツァルの彫像を拝むことを「我らが拝むのは唯一の主のみ」との理由で拒否した人々。すると彼らに弾圧が加えられる。

彼らは言う、「どんな弾圧を加えても、きっと我らの神は守ってくださる。しかし、たとえそうでなくても王の偶像を拝むことはできない」と。この「たとえそうでなくても」という言葉がとても大切なものとして響いて来る。

一方の使徒言行録では、初代教会の使徒者たちにユダヤ人たちから「イエスの名によって語ることはあいならん」という命令が下された。すると使徒たちは「人であるあなたがたに従うよりも、神に従うべきである」と答えた。旧約・新約共に、権力者や支配者よりもその信仰ゆえに神に従う人々の物語である。

日本でも江戸時代のキリシタン迫害や、第2次大戦中のキリスト教への弾圧があった。「そんなのは昔の話。今は起こり得ないよ…」などとうそぶいていていいのか?先の議員のような発想が蔓延し、主に従う者には厳しい時代が来るかも知れない…そんなことをどこかで覚悟しておいた方がいいかも知れない。

しかし主に従う道とは、決してお先真っ暗な絶望的な道ではない。それは光を目指す道であり、本当の生きる喜びに至る道であることを信じているから、そしてそれを信じる仲間が世界にいることを知っているから、私たちよりもはるかに厳しい状況の中をそれでもイエス・キリストを信じて希望に向けて生きている人々がいることを知っているからである。

だから、♪「ひとつになろう、手をつなぎ合おう。私たちは兄弟姉妹」♪(トゥマミナ①)そんな思いを抱いて、共に主の食卓を囲もう。