『虹の彼方に』

11月2日(日) <召天者記念礼拝>

創世記9:8-17, ローマ5:12-21

すべて命あるものには、その終わりの日、即ち死が訪れる。誰ひとりその定めから逃れることはできない。そして私たち人間は、自分が死すべき存在であることを知っている。おそらく人間だけがそのことを地上で唯一認識している生き物であろう。だから人間は墓を作る。葬式をする。それは人間が死を意識して生きてきた証しに他ならない。

そのような人間の意識は、さらに人はなぜ死ぬべき定めとなったのか、死んだらどこに行くのか、といった問いを生み出した。そのような問いを重ねながら、人類の祖先がたどり着いたひとつの到達点が、旧約聖書・創世記の創造物語、あのアダムとエバの物語である。

人類の祖先であるアダムとエバが神によって造られた時、エデンの園という楽園に住んでいた。どの木の実を採ってもよかったが、園の中央の木の実だけは採ることを禁じられた。しかし二人はこの命令に背き、ヘビにそそのかされて木の実を食べてしまった。それ故に二人は楽園を追放され、その罪に対する報いとして死の定めが下された…。いわゆる「原罪」の物語である。今日の新約の箇所(ローマ5:12)はその原罪のことを語っている。

一方の旧約の箇所はノアの箱舟の物語、こちらも罪ゆえに洪水で滅ぼされてしまう人々のお話である。人の死すべき定めには、人間の原罪と神の罰といった図式が浮かび上がる。

ではその人間は、死んだらどこに行くのか。すぐに天国や地獄にいくのではない。「陰府(よみ)」と呼ばれる世界に置かれ、そこで最後の審判に備える。終わりの日に裁きを受けて、永遠の命・永遠の滅びのどちらかに振り分けられる…。それがキリスト教の教義に基づく見解である。陰府とはどんな世界なのだろう?明るい暖かな世界は想像しづらい。むしろ冷たい暗い世界のイメージを抱く。

ユダヤ教・キリスト教という宗教が、人間の罪と真剣に取り組んできたことはとても大切な意味があると思う。ただ、その罪ゆえに死んだ人間は、冷たく暗い陰府でいつの日かなされる裁きの日のために待機している…といった死後の世界のイメージは、なんとかできなかったのかなーと思う。自分にとって大切な人が亡くなって、そのような暗く冷たい世界に止められていると言われれば、誰もがいたたまれない気持ちになるのではないか。

ノアの箱舟の物語では、洪水の後地上に降りてきたノアの前に、大きな虹がかかったと記される。それは再び地上を歩むノア一家に対する神の祝福のしるしである、と。この記述を見ながら思う。すでに召された人たちの住む世界。それはこの虹の光に照らされたところなのではないか、そうであって欲しい…と。

それはわたしたちの願望するイメージの世界でしかないのかも知れない。けれども、陰府の世界だって誰が見てきたわけでもない、その意味ではイメージの世界である。同じイメージならば冷たい暗がりではなく、神さまの光に照らされる世界、そんな思いを抱いてもいいのではないだろうか。

“虹の彼方の遠い空の上、いつか子守歌で聞いた国がある。
虹の彼方には青い鳥が飛んでいる。
鳥たちが虹を越えて行けるなら、私たちにだって行けるはず”
(Over the rainbow)

虹の彼方におられるに違いない、既に地上での生涯を終えられた方々を憶えて、共に祈りをささげよう。