2018年11月11日(日)
創世記18:9-15,ローマ9:6-9
「約束の言葉は『来年の今ごろ、サラには男の子が生まれる』というものでした。」(ローマ9:9)パウロはこの言葉を、神の約束の確かさを示すものとして引用している。ところが大元のアブラハム物語では、アブラハムもサラもこの約束の言葉を「(隠れて)笑った」と記される。
この態度を神によって指摘され、そのため生まれてくる子どもに「イサク(笑う)」と名付けるよう示された。これは神の叱責・懲らしめなのだろうか?もしそうだとするならば、二人の笑いは「不信仰・不謹慎」の極みとなってしまう。しかし「笑い」とは神から与えられた豊かな感情表現でもある。そこで今日は「笑い」について考えてみたい。
人は折に触れて笑う。面白いこと・心地良いことがあった時、心を明るくすることがあった時、笑う。そのような健康的な笑いばかりではない。人をバカにし、失敗を蔑むように笑う。相手を威嚇し威圧するように笑う。人を否定し冷たく切り捨てるように笑う。時には悲しくてしょうがないのに、絶望感に苛まれているのに漏れてくる笑いもある。
そもそも人はなぜ笑うのか?「ある概念と、実際の客観との間に、突然不一致が知覚される時、笑いが生じる」(ショーペンハウエル)という説明がある。学校の朝礼で校長先生が台に上がろうとして躓いた。それを見て生徒は笑う。「転ばないはずだ」という思い込みが破られたからだ。「こうなるものだ(概念)」と「そうはならなかった(実際の客観)」との間にギャップが生じる時、人は笑うというのである。
アブラハムとサラは、神の約束と自分たちの現実(90歳と100歳の夫婦)とのギャップに笑った。それは約束を否定・拒否する、というよりは、自分たちの現実を謙虚に見極めた振る舞いと思える。つまり彼らが笑ったのは自分自身の姿だ。それを「不信仰だ」と決めつけるのは少々気の毒に思える。私たちも同じような心理に至ることがあるのではないか。
すると神さまは二人の隠れた笑いに気付かれた。そして二人にそのことを確認(叱責?)され、生まれてくる子どもを「イサク(笑い)と名付けよ」と命じられた。このやりとりに、叱責や罰といったニュアンスとは少し違う、ユーモラスなものを感じるのである。二人に問いかける神さまの顔は、怒った顔ではなく、笑っていたのではないかと思うのだ。
神さまは二人の上に起ころうとすることを知っておられた。それなのにその可能性をあきらめ力なく笑う二人を見て、そのギャップに笑っておられた… そんな風に受けとめたい。
はたしてサラはその後身ごもり男の子を生み、イサクと名付け、こう言った。「神は私に笑いをお与えになった。聞く者はみな、私と笑いを共にするでしょう」(創21:6)。人間の限界の中での力ない笑いが、神の笑いによって新たな世界へと開かれているのを感じる。
不完全な存在である人間が、その自分を根拠にして物事を考え対処しようとすれば、力なく笑うしかない場面がある。しかし無から有を生み出される神を根拠に考える時、そしてその神の力強い笑いに支えられる時、私たちにも新しい世界を開く笑いが与えられるのである。
「今泣いている人は幸いだ。あなたがたは笑うようになる。」(ルカ6:21)とイエスは言われた。人生は順風満帆の時ばかりではない。時には躓き失意のうちに眠りにつく夜もあるかも知れない。それでも神の大いなる力(笑い)に支えられて歩む時、必ず笑える日がくる…そのことを信じよう。