『 最も偉大な王さま 』

2018年11月25日(日)
サムエル下5:1-5, ルカ23:35-43

日産自動車のカルロス・ゴーン会長が、自らの報酬を実際より少なく申告していた罪により逮捕された。「ミスター・コストカット」の異名を持ち、経費削減と無慈悲なリストラにより業務成績をV字回復させた“帝王”も、自分自身のコストはカットしなかったようだ。

倫理観、道徳心、公共心のない人のことを内田樹さんは「今だけ、カネだけ、自分だけ」と評したが、この「自動車業界の王さま」はまさにそのものの人物と言えよう。この王さまは自社の社員、さらに下請けの関連企業の社員という“民”(国で言えば国民)のことは考えず、自らの利益を何よりも優先する王さまである。しかし深刻に感じるのは、今の時代、これが一企業のトップだけの問題ではなくなってきているということだ。

世界で最も大きな経済力・軍事力・影響力を持つ国のトップが「他の国のことなんか知らん!わが国が何より重要だ!」と嘯く。すると底が抜けたようにあちこちの国で同じような人が国のトップに選ばれていく。人類が長年かけて積み上げてきた倫理観や公共心が「そんなものはきれいごとだ!」と破壊されてゆく。

心配なのはそんなリーダーを、民が選んでいる、という現実だ。それは民の心の中にも「今だけカネだけ自分だけ」の欲望が広がっているということの顕れなのではないだろうか。

いったいどういう人物が民のリーダーとしてふさわしいのだろう?聖書に示された二人の王さまの姿からそのことを考えてみたい。

ひとりはダビデ。旧約の箇所はダビデの王位任職式の場面だ。イスラエル二代目の王、文武両道に優れ最も偉大な王と称され、来たるべきメシアはこのダビデの家系から生まれると信じられてきた。しかし多くの人々の信任を得て王となった彼も、世俗の権力を手にするとダークサイドに落ちてしまう。部下の妻にひと目惚れをし、策略を企てその部下を戦死させ、妻(バテシバ)をわがものにしてしまう。ダビデのような優秀な人物でも、「最も偉大な王」と呼ばれるにはふさわしくない。

もうひとつの箇所は十字架にかけられたイエスの姿だ。十字架の上には「ユダヤ人の王」という札が掲げられた。そのように呼ばれるにはまったくふさわしくない姿。一緒に処刑された犯罪人もイエスを罵った。

ところがもう一人の罪人はそれをたしなめ、イエスへの信仰を告白した。彼は何を見たのか、感じたのか?十字架上で自分を十字架にかけた人々の赦しを願う姿を見て、「この人こそ、悩める者、貧しき者のまことの王だ」と感じたのであろう。力と武力と裁きで人々を支配するのではなく、愛と慰めと赦しによって人を内側から作り変える…そんなイエスこそ最も偉大な王であることを私たちも信じよう。