『 みこころのままに 』

2018年12月23日(日)クリスマス礼拝
ルカによる福音書1:26-38

「おめでとう、恵まれた方!主があなたと共におられます!」天使ガブリエルによってそのように告げられたマリア。あまりにも唐突に告げられたそのお告げに、マリアの内心はいかばかりであっただろうか。

「えーっ!?なぜわたしが!?」驚きと共に不安を抱くマリア。それも当然である。彼女はまだ婚約者のヨセフと結婚していなかったのだから。結婚前の女性がその結婚相手以外の人の子を宿すことは、律法(レビ記)の条文を厳格に適用するならば厳罰(死刑)の処せられるほどの出来事である。

「どうしてそのようなことがあり得ましょうか」というマリアの返答には、戸惑い・疑問以上のニュアンスが感じられる。「そんなことがあっては困る!何がおめでとうだ!」そのような拒否感が強くあったのではないか。

天使は「あなたの懐妊は聖霊によるもの。だから生まれてくる子は神の子だ。親戚のエリサベトも高齢なのに子を宿している。神に出来ないことはない。」とたたみかける。するとその言葉を聞いてマリアは言った。「お言葉通りこの身になりますように」。

“Let it be (みこころのままに)”。マリアはそう答えるのである。つい先ほどまでの、「とんでもない!ご免被ります!」といった感情は露のように消え去ってしまったのだろうか?そうではなかったんじゃないか… そのように思うのである。

マリアがここでつぶやいた「みこころのままに」とは、自分の事情や立場はいっさいかなぐり捨てて、神に100%の信頼を寄せる立派な信仰告白の言葉などではなく、心の中にはなおくすぶる不安と疑問がありながらの「みこころのままに」だったのではないか。本心を言えばそういう役割はご辞退申し上げたい… そんな思いを抱えながらの言葉だったのではないだろうか。

そもそも、人が神に「みこころのままに」と祈る時とは、どんな時だろう?順調な時や大きな期待に胸が膨らむような時、私たちはあまり「みこころのままに」とは祈らない。むしろ行く手に不安がある時、試練や苦難の時、しかしそれでもその道を進まねばならないと思えるような時にこそ「みこころのままに」という祈りが生まれるのではないか。

イエスもまたゲッセマネで「みこころのままに」と祈られた。それは自分の本心と、神のみこころの間で、まさに身を引き裂かれる祈りであった。マリアもイエスも不本意ながらも神の定めを受け入れた。そこに「みこころのままに」という祈りがあった。

「苦悩から逃げずに苦悩することが最も人間らしい。そこに希望がある。」(V.フランクル)成長した幼な子は、そのような希望を人々に与えるために生涯を送り、世の救い主となられた。