2019年1月6日(日)
ヨシュア3:1-13,ルカ3:15-22
昨年のクリスマス、前橋教会ではこの年もひとりの受洗者(高校生)が与えられた。新島学園に通う中から礼拝に来られ、東日本ユースキャンプ(同志社主催)への参加などの体験を経て、受洗を申し出られた。信仰告白会では原稿も見ずに自分の信仰を語っておられたのが印象的だった。
洗礼によって新しい信仰の仲間が加えられることは、教会にとっても大きな喜びである。今日の箇所はイエス・キリストの受洗の場面である。イエスもバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた。今年最初の礼拝、わたしたちにとって「洗礼とは何か?」ということについて、改めて考えてみたい。
何も知らない人に洗礼について説明する時、「キリスト教への入信の儀式」と説明するだろう。水によって洗われ、罪を赦されて新しく歩む。それを象徴するのが洗礼という儀式である。
旧約のテキスト・ヨシュア記では、エジプトの奴隷状態から解放され、約束の地に向かって進むイスラエルの民が、ヨルダン川を渡る時の様子を伝えている。あの「海の奇跡」と同じように、川の水が壁のように立ち上がってその間の道を進んで行ったという。「水の間を通って救いへと導かれる」、それは洗礼のメタファーともとらえられている。
イエスの時代にも洗礼運動は続けられていた。バプテスマのヨハネがその第一人者である。そのヨハネからイエスは洗礼を受けられた。ヨハネはイエスについて「私より優れた方、水ではなく聖霊と火で洗礼を授けられる」と語っている。そのイエスが洗礼を受けられたということは、不思議に思える。はたしてイエスにも「罪の赦し」「救いの宣言」といったことが必要だったのだろうか?
イエスが洗礼を受けられた本当の理由は短い箇所からは知る由もない。ただひとつだけ確かなことは、この洗礼によってイエスの宣教活動(公生涯)が始まっていったということである。
「洗礼はゴールではなくスタートである」ということを洗礼準備会では繰り返し確認している。何か基準のようなものがあってそれをクリアしたから(立派だから)、その報酬として洗礼(救い)が与えられるということではない。むしろどうしても立派になり切れない私たちを、それでも救おうとされる神の愛、その愛を信じ委ねる思いさえ抱ければ、誰でも洗礼は受けられる。
洗礼によって完璧な人格が完成するのではない。しかしその日を境にイエスに従う新しい歩みが始まる…そういうものであればいい。イエスもまた新しく始めるために、洗礼を受けたかったのではないか。これから始まる宣教の旅、それは最終的には苦難の歩みだ。ひるみそうになる時に原点に帰る、そんな決意を心に、いや身に刻むために、イエスは洗礼を受けられたのではないか。
ところで近年、ファッションとしてタトゥー(イレズミ)を入れる若者が増えている。スポーツ選手やミュージシャンの影響と思われるが、私には抵抗がある。いわゆる「ウラ社会」とのつながりのこともあるが、理由はそれだけではない。一度入れたら消すことができないものだからだ。「それを一時に気分で入れてしまっていいのか?」と。しかしハタと考えた。私たちが洗礼を受けるのも、一生に一度のことである。それは、イエスの教えと生涯を身に刻むようなものではないか。
パウロは洗礼を「キリストを着る」(ガラテヤ3:27)と表現した。いい表現だと思う。しかしそれは、私たちの気分次第で脱ぎ着自由にできる、というものではなく、生涯にわたって身に着け続けるものであろう。私たちの目には見えないけれど、神の目からははっきり見えるタトゥーを入れるように。その身に刻む「しるし」が、私たちを自分一人ではたどり着けなかった歩みへと導いてくれるのだ。