『 主の招きに応える者 』

2019年1月13日(日)
出エジプト18:13-27,5:1-11

人が何かひとつのことを成し遂げようとする時、その人の意志・決意が必要なことは言うまでもない。しかしそれと同じくらい大切だと思うのは、その目標に向けて共に労を担ってくれる同労者の存在だ。どんなに専門的で志高いものであったとしても、それがひとりの夢だけだったなら、はかない妄想と消え去ってしまうかも知れない。

事柄が実現するには「同労者(共犯者)が必要だ。「ひとりの夢」が「みんなの夢」に変わる時、夢はひとつの姿をとり翼を持って羽ばたくことだろう。「ひとりで背負い込んではダメ」ということだ。

エジプトの奴隷状態から解放され自由を得、「約束の地」に向けて旅立ったイスラエルの民。しかし彼らには様々な困難が訪れる。最初の困難は、飲み水と食料の不足だった。今日でも災害の際に真っ先に必要になるものである。この危機は、神の不思議な導き(岩から出る水、マナ)によって乗り切ることができた。

次に訪れた危機は、民同士のいさかいである。これを円満に解決できなければカナンに着く前に分裂してしまう。モーセは自らが「裁き人」となって、トラブルを処理していた。

するとモーセのしゅうと・エトロが「そのやり方はよくない」と言った。そして「民の中からあなたの代わりに裁く人を立てなさい。小事は彼らに任せ、大きなことだけあなたが仕切るのがよい」と忠告した。モーセはその進言を受け入れ、仲間を信頼し働きを委ね、役割分担をしながら旅を進めていった。

私は人にものを頼むのが下手だ。説明の面倒くささを考えると、自分でやった方がスムーズに思えるのだ。しかしその考えの中にあるごう慢に気付かされる。何よりも、ひとりで抱えてしまったら、自分がいなくなれば事が進まなくなる。それは「よくないこと」だ。

イエスも神の国を宣べ伝える宣教の働きを、自分一人で担わずに、弟子を招き彼らにも働きを委ねられた。その弟子たちとは漁師であり、徴税人であり、女性たちであった。当時の社会ではどちらかというと低く見られていた人たち、そんな彼ら彼女らをイエスは「同労者」として招かれるのである。

ペトロの召命の場面である。舟の上でイエスはおもむろに、ペトロに「沖へ出て漁をしなさい」と言われた。ペトロはムッとしたのではないだろうか。プロの自分たちがひと晩取り組んだのに不漁だった、それなのに素人のイエスに指図されたのだから。しかしペトロは「お言葉ですから」と舟を出した。彼は自分で判断を下さずにイエスに委ねた。そこに奇跡の大漁が与えられ、ペトロはイエスの弟子(同労者)となった。

「主の招きに応える者」とはどんな人だろう?能力の高いエリートたちがそれにふさわしいのだろうか?そうではないと思う。なぜならイエスが目指した神の国とは、一握りのエリートたちだけが入れる世界ではなく、すべての人が(強い者も弱い者も)その存在を受け入れられるところだからだ。自分の力の足りなさを知りつつも「お言葉ですから…」そう言って委ねることができる人こそ、主の招きに応える人である。