『 近くて遠い方 』

2019年1月20日(日)
民数記9:15-23,ルカ4:16-30

信仰とは、神のみこころを尋ね求め、神の声を聞きその言葉に従う歩みのこと… それが模範解答である。しかしそこでいきなり難関に突き当たる。わたしたちには神の声・言葉が聞こえないのである。「いや、わたしは聞いたことがある」という人もいるかも知れない。その人には尋ねてみたい。それは男の声?それとも女?何語で聞こえてきた?音声として聞こえてきた?それとも心に響く声として?それは本当に神の声だった?それとも自分の思い込みなのではないか?と。

「古代の人には神の声が聞こえた」という説がある。アメリカの心理学者、ジュリアン・ジェインズの提唱する「バイキャメラルマインド(二分心)」。「自我の意識」が未発達の時代、いわゆる「心の声」を人々は「神の声」だと受けとめていた。それに比べ、現代は自我の意識が発達し、「神々が沈黙する」時代だというのだ。

昔の人の方が信仰が深くて、現代人は信仰から離れていっているということか?「それはちがう」と内田樹さんは指摘する。神の声が聞こえていた時代は、その声に従っていればよかった。しかし聞こえなくなった中で、それでも神の声を聞こうとする、その営みが信仰を成長させるのだ、と。親元で何の心配もなく暮らしていたこどもが、親元を離れ親がいない中で苦労することによって、次第に成熟してゆく姿に似ている。内田さんの師・レヴィナスは、「まことの信仰に至るには、無神論を経過しなければならない。」と述べたそうだ。

今日の聖書日課、旧約は民数記、モーセに率いられて約束の地を目指す人々の姿だ。移動式の聖所「天幕」を中心に旅を進めるイスラエル。その幕屋を雲が覆い、民を導いたという。本来天高く離れているはず雲が人々に近づき、雲が進めば民も進み、雲が止まれば民も止まる。こうして人々は「神の言葉」ならぬ「雲の導き」によって出処進退を決した。「神は近くにいて守り導いて下さる」、それがこの箇所のメッセージだ。

一方の新約の方は、イエスの故郷での宣教開始の様子を伝える。故郷・ナザレの人々がイエスに寄せた強い関心、賞賛の声、そして数々の期待… しかしイエスは「あなたがたの期待通りには動かないからね」というような「つれない発言」をし、人々の恨みを買ったと記される。ナザレの人々はイエスに「近くを歩んでほしい」と願った。しかしイエスはそんな故郷の人たちと遠く距離を置かれる。

本来遠くにある雲(神)が民を導くというパラドックス。故郷ナザレの人々が抱く近しい思い(身内意識?)から距離を置かれるイエス。この二つの、一見何の結び付きも感じられない聖書の言葉は、何を告げているのだろうか?それは「神、そしてイエス・キリストという存在は『近くて遠い方』だ。」ということを示しているのではないだろうか。

神やイエスを身近に感じて歩むこと、それは私たちの大切な信仰の道のりだ。しかしもたれ切ってはいけない。全部神さまに任せて、自分のタラントを出し惜しみしてはいけない。たとえ遠く離れていても、声が聞こえなくても、すぐに助けてくれなさそうでも、それでもその存在を求めその声を聞こうとする営みこそが、私たちの信仰を成長へと導くのだ。