『 心で信じ、口で告白する 』

2019年3月10日(日)
申命記6:10-19, ローマ10:8-13

3月1日に行なわれた世界祈祷日集会の今年のテーマは「いらっしゃい、準備はできています」というものだった。聖書はルカ14章の「大宴会の譬え」。主人(神)が宴会を催し人々を招くお話である。譬えの結末は、それまで招かれることのなかった多くの人が招待されるということだが、注目したいのは、招かれているにも関わらず、あれこれ理由をつけて断る人々の姿だ。

招待されるのが「あたりまえ」になってしまい、感謝の思いより先に自分の都合を優先する。挙句の果てにはその招きをうっとうしくさえ思ってしまう人々。イエスが譬えているのは、律法学者やファリサイ派の人々の姿であろう。「自分は当然神の国に入れる」そう自認していた人々の思い上がりをイエスは諭されたのだ。

しかし考えてみれば、私たちにも同じことは起こり得る。神の恵みへの感謝を忘れ、自分の都合を優先してしまうのは、私たちの姿でもある。今日の旧約の箇所(申命記6:13-14)には「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、・・・ 他の神々に従うな」という教えが語られる。この「他の神々」というところに、「資本主義社会が提供する様々な快楽」という言葉を入れれば、誰にでも思い当る節があるのではないか。

ところで、この申命記には不思議な言葉が記されている。「熱情の神」。以前の口語訳聖書では「ねたむ神」と訳されていた。他の神々を拝むならばこれをねたみ、嫉妬する・やきもちを焼く、そんな神さまである。「神さまが嫉妬するなんて、そんなのおかしいよ…」と思うだろうか。でもよく考えてみたい。なぜ神は嫉妬するのか?それは、それほどイスラエルを愛しておられるからではないだろうか。愛情が深い分、裏切られた時の憤りも大きいのである。

「神が私たちを深く愛しておられる。」そのことを信じ感謝して歩むこと、それを教えてくれたのがイエス・キリストだ。そのイエスを救い主と信じることで救われる… それがキリスト教信仰である。神の深い愛に気付いたならば、あれこれ理由をつけてそれを拒むのではなく、感謝をもってその愛に応えたい。

ローマ書でパウロは、その信仰によって救いヘト導かれる歩みについて、二つのことを示している。すなわち「心で信じること」と「口で公に言い表す(告白する)こと」である。しかしそれと共に「口で公に言い表す(告白する)ことも大切だ」とパウロは言う。これは具体的には、礼拝の中でなされる共同の信仰の告白のことだと考えられている。

信仰がひとりひとりの心の中の出来事であるのは言うまでもない。しかし「自分は心で信じている。だから礼拝に出なくても、ひとりでも大丈夫!」という人に対して、ある種の危なさを感じる。なぜなら、人間というものは弱いもの、道を誤りやすいもの、「ひとりよがり」になりがちなものだと思うからだ。

そのような迷路に入り込んだときに、助けてくれるのは共に歩む仲間の存在である。そんな仲間たちと互いの信仰を確認し合うこと、それが「口で公に言い表すこと」すなわち、告白することなのである。イエスは「ふたり、または3人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)と言われた。口で告白すること、それは極めて共同体的な行為である。その共同性の中に、イエスもまた共にいてくださる。

前橋教会では最近礼拝プログラムの見直しを行ない、信仰告白を後半に移動した。しかも、これまでは「使徒信条」だけであったが、それ以外の様々な信仰告白文も用いて行なっている。「礼拝の最後に、信仰を告白し、頌栄の賛美をし、祝祷を受けて日常へ出かけてゆこう…」そんな思いを込めた変更である。この礼拝の流れの中で、毎回、力を与えられて礼拝堂を後にできるようになったと感じている。「心で信じること」「口で告白すること」この二つを大切にしながら、イエス・キリストに従って行こう。