2019年3月17日(日)
創世記6:11-22, ルカ11:14-26(3月17日)
レントは「克己・修養」の時、自分の罪を見つめて過ごす時期である。これは決して心地よい営みではない。聖歌隊に参加する子どもたちが「レントの選曲は暗いからつまらない」とつぶやく。気持ちはよく分かるが、だからといってレントのテーマを外すわけにはいかない。なぜなら、私たちの信じる救い主、イエス・キリストは、十字架によって命を奪われた方であるからだ。
もしイエスがエルサレムに向かわずガリラヤあたりに隠遁して、もっと多くの教えを人々に語り天寿を全うしていたら、キリスト教は全然違ったものになっていたであろう。レントもなかったし、イースターも存在しなかったであろう。しかしイエスは、十字架の苦しみを覚悟の上でエルサレムに向かわれたのである。なぜか?それは「悪と闘うため」である。
「悪」といっても、犯罪者や極悪人といった類の人とだけ闘われたのではない。むしろそういう反社会的なことはせず、「自分は善人だ」と自認している人たちの、その心の奥に潜む悪や罪とイエスは闘われたのである。自分の罪や弱さを見つめることは決して楽しい作業ではない。しかしそのことを通してこそ、私たちは全体的に赦され、救われるのだ。
ところで、人間の心の中の悪の問題を考える時、自ずと生じてくる疑問がある。全知全能の神さまが、いったいなぜ、人間をそのような悪しき思いを抱くような存在として作られたのか?という疑問だ。これは人類にとって永遠のテーマと言えよう。
この哲学的な問いに対して、ウィットにとんだユダヤ人のジョークがある。今日の旧約の箇所、ノアの箱舟にまつわる小話である。悪い人間たちを滅ぼすために神が起こす洪水、そのとばっちりを受けて動物たちが滅ぶことがないように、神は全ての動物のつがい(オス・メス)を箱舟に乗り込ませることをノアに命じられた。そこに天使がやってきて「乗せて下さい」と頼んだ。ノアは言った「つがいでないとダメです」。そこで天使が連れてきたのは、悪魔であった…という小話だ。
イエスの時代には、人間の悪の原因として、もっとハッキリとした存在が意識されていた。「悪霊」である。今日の新約は、その悪霊に取りつかれた男をイエスが癒す場面だ。ひとりの「悪霊憑き」の男を、律法学者やファリサイ派の人たちは癒すことができなかった。ところがイエスがそれを成し遂げたことによって、彼らはメンツを潰されたわけである。その腹いせに「あいつ(イエス)は悪霊の頭の力で悪霊を追い出しているのだ」と言って中傷した。要するに「やられたらやりかえせ!」式で、同種の力で相手をやっつけているにすぎないのだ、と。
それに対してイエスは「私は神の指(マタイでは「聖霊で」)で悪霊を追い出している。」と言われた。これはどういうことか?悪霊と同種の破滅をもたらす力ではなく、愛の力で闘っているということを示すのではないだろうか。
律法学者やファリサイ派は悪霊憑きの人を「邪悪なもの」として遠ざけ、憎み、進んで関わろうとしなかった。しかしイエスはその全存在を受けとめ、大切にし、受け入れられた。そのことによって心が開かれ、悪霊憑きの人は癒されたのだ。
イエスのそのようなふるまいの大元にあるもの…それはその人の存在を大切に思う気持ち、すなわち「愛」である。その愛の力で、イエスは今日も悪と闘われる。私たちの中にある様々な悪や罪。イエスはそれらを「懲らしめ、やっつける力」ではなく、「愛の力」で闘い、赦して下さる。世の中にも様々な悪、憤りを覚えることがある。しかしそれらに対して、「やられたら、やり返せ!」という道ではなく、愛の力でその悪と闘う道を、私たちはイエスから学ぶのである。