2019年4月14日(日)
ルカによる福音書22:47-63
世には様々な冤罪事件が存在する。その中の一つに「狭山事件」がある。女子高校生の誘拐殺人事件の容疑者として、被差別部落出身の石川一雄さんが逮捕され有罪となった事件であるが、石川さんは有罪判決が降された後、ずっと無実を主張しておられる。逮捕、有罪判決、再審棄却の背後に、部落差別があることが強く批判される事件である。
石川さんは、確かに一度は自白をした。しかしそれは家族(兄)に疑いがかけられていることを聞き及び、取調官との取引のような形でなされた自白であった。「やってないなら自白なんてしないはずだろう」と思うかも知れないが、取り調べの過酷さの中ではそういうことがあり得るという。逮捕・拘留中の緊張状態の中で、人は皆自分のことしか考えられなくなってしまう。そしてその自分が楽になりたいという思いから、人は偽りの証言をしてしまう。こうして冤罪事件が起こるのだ。
イエスの逮捕・裁判も、ある意味では冤罪事件だ。ピラトはイエスに罪がないことを見抜き、何とかしてゆるそうと手配する。ところが大祭司たちに洗脳された群衆が「十字架につけろ!」と騒ぎ立ったため、イエスの処刑を許可した。その間、裁判の中でイエスはひと言も弁明や命乞いの言葉を語られなかった。黙って裁きに身を委ねるイエスの思いは、どのようなものであったのだろうか。
今日の聖書箇所はイエスの逮捕の場面である。ほとんど丸腰のイエスを捕らえるために、大勢の人々が武装して力づくで捕らえようとやってきた。その時弟子のひとり(ペトロ?)が、手にしていたナイフで大祭司の手下に切りかかり、片方の耳を切り落とした。するとイエスはその弟子に「やめなさい、もうそれでよい」と言われ、そしてその耳に触れて癒された、と記されている。これは福音書に度々登場するイエスの「癒しの奇跡」の、その生涯最後の出来事である。
捕らわれの身、即ち人が自分のことしか考えられずに、弁明したり命乞いをしたり、楽になるためにウソの証言をしたりするような状況の中で、イエスは自分を捕らえにやってきた人(敵対者)の、その痛みが癒されることを願っておられるのである。それは十字架上で「父よ、彼らをお許し下さい。自分が何をしているのか分からないのです」と祈る姿にも重なる。
厚生労働省の元事務次官・村木厚子さんも冤罪事件の翻弄された人だ。私が心打たれるのは、自分の無実を主張し続けた意志の強さではない。拘留中の彼女の振る舞いに対してである。彼女は同じ刑務所に若い少女のような受刑者がたくさんいることに気付く。聞いてみると、ほとんどが薬物や売春のたぐいであるという。「やってはいけないことだが、いろんな生き辛さを抱えた人の終着駅が刑務所なのではないか」そんな風に受けとめ、裁判で無実を勝ち取り退職した後、貧困・虐待・性的搾取などの課題に取り組むNPO法人を立ち上げて活動を始められた。自分自身が捕らわれの身にありながら、他者へのまなざしを忘れずに持ち続け、それを自身のライフワークとされたその人間性の深さ・尊さは、イエスの姿に通じように思い、心を打たれた。
♪「十字架の上にあげられつつ/敵をゆるしし、この人を見よ」(讃美歌21-280)
捕らわれの身になっても、それでも隣人のことを思いやれる心を持つ人。それが私たちの信じる救い主なのだ。