『 共に食する交わり 』

2019年5月5日(日)
ルカによる福音書24:36-43

きょうは「平成から令和への改元」がなされて最初の主日(日曜日)である。私は世間の「改元フィーバー」に対して冷めており、特に関心も持たず注目もしていなかった。しかし考えて見れば、次の改元が行なわれる時にはほとんどの人はここにいない。そんな節目を何のコメントもせずにやり過ごしてしまっていいのか?と思った。そこで、ひと言だけコメントさせていただきます。

「特にコメントする言葉はありません。」

これでおわり!… でもいいのだが、あまりにも手抜きっぽいので、もう少し…。「改元によって別に時代が新しくなったとは思ってません。世の情勢に右往左往させられることなく、私たちの前にある日常を、神とイエスとに導かれて誠実に歩んでまいりましょう。」以上、コメントおわり。

今日の箇所は、ルカによる復活の使信の3つ目のエピソードである。先週取り上げたエマオ途上での出会い。その経験を伝えようと二人の弟子が他の弟子たちのところに出かけて話していると、そこにイエスが現れまん中に立たれた、と記される。

子どもの頃この箇所を読んで「なんだ、それだったら最初っから弟子たちの前に現れたらよかったじゃないか、もったいぶってるな…」と思っていた。しかし今は、少しずつ近づいてこられるイエスの姿に味わいを感じる。それは、イエスを失った弟子たち、しかも肝心な時に見捨てて(裏切って)しまった痛恨の思いを抱いた弟子たちが、その失意の中から徐々に日常を取り戻してゆく歩みを象徴的に表しているように感じるのだ。

弟子たちのもとに現れたイエスは、「シャローム(平安あれ)」とユダヤ人が交わすいつものあいさつをされた。そして弟子たちに「何か食べ物があるか」と尋ねられた。彼らは一切れの焼き魚を差し出した。それはガリラヤの漁師であった彼らにとって、特別な食事ではなく、いわば日常の食事そのものである。イエスの姿を見て「亡霊が現れた」と思っていた弟子たちを諭すように、イエスはその魚を取り、それをムシャムシャと食べ始めた…。

このエピソードは現代に生きる私たちに何を示すのだろうか?きょうは次の二つのメッセージを受けとめたい。一つめは、イエスのよみがえりの命、それは亡霊ではなく、肉も骨もある実体、つまり「ヴァーチャル」ではなく「リアル」だということだ。現代社会はヴァーチャルなものが溢れる社会である。しかしそんな中で私たちに「こころが熱くなる」経験を与えてくれるのは、リアルな人との出会い・交わりである。

もう一つのこと。よみがえりのイエスが弟子たちに姿を現し、最初になされたこと、それは「共に食事をする」という日常の営みであったということだ。何かスペシャルなことをするのでなく、人間が生きる上で一番基本的な事柄、即ち「共に食事をする」ということ、そこにイエスも共におられるということなのだ。

イエスは当時のしきたりを超えて、実に様々な人と共に食事をされた。人と人の間に垣根を作らず、むしろ蔑みを受けているような人とこそ共に食卓を囲み、共にいのちを祝う交わりを持たれた。そんなイエスの姿を記念するために、初代教会では毎回の礼拝の中で「主の晩餐」の交わりを持つようになった。「共に食する交わり」こそが、教会の原点なのである。

「時代の変わり目」「新しい時代の始まり」などというヴァーチャルな言説に流されることなく、私たちの前にある日常を大切にし、身体を持った人間との出会いを大事にしながら生きる。そのような営みを通して、私たちはよみがえりのイエスと共に歩むのだ。