『 イエスは命のパン 』

2019年5月12日(日)
出エジプト16:13-16、ヨハネ6:34-40

「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)。荒野で修行をしていて空腹の時、「この石をパンに変えてみよ」と迫るサタンの誘惑に対して、イエスが返した言葉である。

この言葉を受けて、ドイツの神学者ドロテー・ゼレは「人はパンのみに生きるのではない。それどころか、パンのみによる生き方は死を意味する」と述べた。どういうことか?「私は自分が生きていくために必要なもの(パン、お金等)が手に入りさえすればそれでいい、あとは隣人がどうなろうと、世界がどうなろうと、自分には関係がない…」 ― そのような生き方は「関係性の断絶」であり、生きながらにして死んでいるのに等しい、という意味である。

ところで、先のイエスの言葉は、イエスのオリジナルではない。申命記8:3に記された言葉の引用である。そこで述べられているのは、エジプト脱出の際に起こった「マナの奇跡」である。エジプトの奴隷状態から解放され自由を手にしながら、日々の食物の入手に窮したイスラエルの民。そんな彼らを主なる神は「不思議なパン」(マナ)で養われた、という出来事だ。

「人はパンのみに…」という言葉を聞くと、「物質より精神が大事だ」という受けとめ方をしてしまうことがあるかも知れない。しかし、申命記が語るのはそういう話ではない。身体という物質も、心という精神も、主なる神はすべて含めて私たちを養って下さる… マナの物語はそのことを伝えるものであり、イエスの思いもそこにある。

イエスは、人間にとってパンがいかに大切かを知っておられた。貧しい庶民にとって、生きていくためにいかにパン(お金)が何必要不可欠か、よく分かっておられた。 しかしまさにそこに、「自分さえよければ」という自己中心の誘惑が大きな口を開けて待ち構えているのである。だからイエスは「人はパンのみの生きるのではない」と言われたのである。

マナの物語のひとつのポイントは、「必要以上に集めてはいけない」ということである。それは二日分集めると、虫がついて腐ったと記されている。欲望の虜になるのはやめて、分かち合うことの大切さを示す物語でもあるのだ。

「わたしは命のパンである」。新約の箇所(ヨハネ6章)に記されたイエスの言葉である。「このパンを食べ、私の血を飲む者は永遠に生きる」(6:54)― この言葉には明らかに聖餐式の影響が見て取れる。ヨハネ福音書が執筆された当時、既に初代教会の中で儀式化が進んでいたであろう聖餐の理解が、これらの記述に現れていると考えられる。聖餐のパン(ホスティア)には人を永遠の命に至らせる「効能」がある…それが古代・中世の聖餐理解であり、伝統的にその理解を受け継いだのがカトリックの化体説だ。

しかし私たちはこの言葉を、「パンという物質に永遠の命に至らせる効能がある」といった化体説的な理解による受けとめ方ではなく、プロテスタントらしく象徴的な受けとめ方をしたいと思う。イエス・キリストの教えとその生き様は、下手をすると自己中心の思いの中で「生きながらにしての死」のような状態に陥りかねない私たちにとって、いのちの危機を回避させてくれる。そして私たちの、心も身体も含めた生きる営みを、全体的に養ってくれる…― そのような意味での「命のパン」なのだ、と。

わが家では毎朝朝食にパンを食べる。「どこのパンでもいい」という訳ではない。これまで暮らしてきたどの街でも、「ここのパンでないと!」というお気に入りの店を見つけてきた。栄養学的にはどの店のパンでも、それこそスーパーのパンでもOKのはずだ。でも朝食にはそのパンを食べないと、一日が始まった気がしないのである。

「イエスは命のパン」ということについても同じことが言えるのではないか。私たちの心を豊かにしてくれる言葉やコメントは、聖書に限らなくても他にもある。しかしクリスチャンにとっては、イエス・キリストというパン、やはり「これでないと一日が始まった気がしない」、そういう関わりを与えてくれるのではないか。「命のパン」に養われ、「さぁ、共に生きよう!」。