『 神の自由、キリスト者の自由 』

2019年5月19日(日)
申命記7:6-11,ヨハネ15:12-17

5月のさわやかな風薫る季節である。昔の人はこの風の中に聖霊、すなわち神さまの目に見えない働きかけを感じた。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いてもどこから来てどこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3:8)。

私たちは風を感じ、風に影響を受けるが、風をつかまえることはできない。風は自由である。同じように神さまの存在についても、私たちはそれを感じ、影響を受けるが、神さまをつかまえること・手の内に納めることはできない。そして「霊から生まれた者」も風のように自由に生きるのだ。

しかし一方で、自由に生きるというのは、実際には大変なことだ。そこでは、もはや人は誰を頼ることもできない。伝統やシステムは自分を守ってくれず、もたれかかることもできない。自由になる前には確かに束縛もあったが、安定もあった。いま自分は自由であるが、しかしそこには同時に不安や孤独も横たわる。

ドイツの心理学者・E.フロムは、近代人はこの不安と恐怖から、次第に「自由からの逃走」を始めた、と分析した。人間の心の中には「自由を手にしたい」という欲求と「何かに頼りたい、支配されたい」という欲求が重なり合っている。この二律背反的な大衆心理の行きついた先、それがナチスの台頭とそれを支持する人々の熱狂であった、というのだ。

現代は一見「自由な社会」に見える。しかし人類は再び同じ所に戻ろうとしているのではないか… いまの世界の現状を見るにつけ、そのように問いかけられているような気がする。今こそ、その「自由」に関する聖書のメッセージが大切ものとして響いてくる。

旧約の箇所は、主なる神がイスラエルを選ばれた、その理由について示している。神がイスラエルを選びこれを「宝の民」とされたのは、彼らが優秀だったからでも、強かったからでも、信仰深かったからでもない。「彼らはどの民よりも貧弱であった…」それが神の選びの理由である。本来自由である神の存在。その「自由な神」の選びの向かう先は「この世の最も小さいもの」であった。

そしてその「神の自由」を体現されたのがイエス・キリストである。イエスは共同体の中で最も低くされた人々と進んで交わり、神の国を目指して行かれた。そのイエスが弟子たちに語られた最後の教え、それが「あなた方も互いに愛し合いなさい」というものだった。

イエスは「友のために命を捨てる愛」を示された。これは究極の愛の姿である。そしてイエスはそれを言葉として示すだけでなく、十字架に至る道において実践された。そのような愛に生きることが「イエスの自由」だった。私たちにはイエスのように「命を捨てる」ことまではとてもできそうもない。しかし、自分の力・時間・財産を、少しでも助けを必要としている隣人のために差し出すことくらいはできるはずだ。

パウロは「あなたがたの自由を肉に罪を犯させる機会とせずに、愛をもって互いに仕えなさい」と記した(ガラテヤ5:13)E.フロムも「自由からの逃走」に至るアイロニーを克服する道として「創造的な仕事」と「愛」とを挙げた。キーワードは他者の存在を自分と同じように「大切に思う気持ち」、すなわち「愛」である。宗教改革者M.ルターが示した二つの命題、「キリスト者は何ものにも支配されない自由な主人である。しかしキリスト者はすべての人に仕える奉仕者である。」ここにキリスト者の自由がある。