『 招かれている者は誰でも 』

2019年6月23日(日)
サムエル記下7:1-7,使徒言行録2:37-47

今日は二つの聖書の箇所それぞれから、二つのメッセージを受けとめたい。旧約は、ダビデが王に即位して間もない頃のエピソードを伝える箇所だ。王宮に神の箱が運び入れられる時に、激しく踊って喜びを表したダビデ。しかしその神の箱は、これまでのように幕屋に置かれる。

ダビデは「私がレバノン杉の家に住んでいるのに、神の住まいが簡易な天幕でよいのだろうか、神殿を建てた方が良いのではないか」と考えた。すると神は、「私がレバノン杉の住まいを求めたことがあったか!」と応じられた。神さまは人間の作った建物にはお住まいにならない。たとえそれがどんな豪勢なものであったとしても。風のように自由に働かれる神は、テント暮らしがお好きなのかも知れない。

しかし神はダビデの思いをソデにされた訳でもない。ダビデに語りかけられる言葉がある。「あなたがどこに行こうとも、わたしはあなたと共にいる」(7:9)、それだけでダビデには十分だったのだ。

新約はペンテコステ直後の弟子たちの宣教の場面。イエスを十字架で処刑した人々に向かって、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神はよみがえらせ救い主として下さった」と語るペトロ。その鬼気迫る説教に促されて、次々に洗礼を受け仲間になったという。その数は、その日だけで3000人と記される。

前橋教会133年の歩みの中で、洗礼を受けられた人の数は総数で1804人である。一世紀以上かかって、ペトロのひとり分にも満たない。それはある意味で集団熱狂のような、異様な光景とも言えよう。しかし多くの人が心を動かす出来事があったことは確かなようだ。

人々の心を動かしたものとは何か?ペトロの説教に迫力があったのかも知れない。あるいは人々は内心、イエスを十字架にかけたことを後悔し、反省していたのかも知れない。何があったのかは分からないが、聖書はそこに聖霊の導きを見る。

そのようにして仲間に加えられた人の間で、共同生活が始まった。それはみんなが財産を持ち寄り必要に応じて分け合うという、「原始共産制」と呼ばれるライフスタイルだった。「共産主義」と言うと旧ソ連や北朝鮮などの独裁・強権国家、恐怖政治を想像してマイナスのイメージを抱くが、本来は労働と分配を平等に行う「ユートピア」の考え方である。それが誰かの指示によってではなく、自然発生的に生まれたというのだ。「互いに愛し合いなさい」「受けるより与える方が幸いである」というイエスの教えが、それを生み出したのだ。

ペトロは「(神の救い・恵みは)主が招いて下さる者ならだれにでも与えられる」と語る。たとえそれがイエスを十字架に架けた人々であったとしても。人間はそういった類の事柄に対して、境界線を引きたがる。しかし神の恵みはそれを軽々と超えられる。