『 この名のほかに救いなし 』

2019年6月30日(日)
申命記8:11-20,使徒言行録4:5-12

私たちはいろんなものに「こだわり」を持つ。「ここのパンが一番ウマい」「ここのうどんは日本一だ!」それは多くの場合、客観的な比較の上での評価ではない。極めて主観的なこと、言い換えれば「思い込み」である。

私は、信仰とはこの「こだわり」の世界、「思い込み」の世界ではないかと思っている。世には数々の宗教があり、それぞれの語り口の中で「救い」を説いている。どれが確かなもので、どれがまやかしか、ということは一概には言えない。どんなに他人には荒唐無稽に見えても、そこに救いを受ける人がいるならば、何らかの真実があると言えるのではないか。

キリスト教では「イエスのほかに救いなし」ということがよく言われる。それが「私にとっては」というスタンスで語られる上では、信仰の世界のある大切な一面の真理を表している。しかしそれが「万人に対してもそうであるべきだ」と語るならば、傲慢のそしりを免れないであろう。

旧讃美歌第2編184番では、当初歌詞が4節まであったが、「第4節は適切さを欠いたことばあり削除しました」という取扱いとなった。そこにはこう歌われていた。「かくまでゆかし神の愛を、なお信ぜぬ者は人にあらじ」。神の愛の素晴らしさを語りたい…その熱意が、超えてはならない一線を超えてしまった一例である。

ペンテコステ以後の弟子(使徒)たちの宣教の様子を続けて読み進めている。語り始めた直後の彼らには心の余裕などなかった。切羽詰まった思いで、まるで酔っぱらっているかのように「あなたがたが十字架につけたイエスが、救い主なのだ!」と語り始めた。

しかしその後、多くの人が信仰を抱き洗礼を受けたり、イエスのような不思議な癒しを施せたりしている中で、だんだんと自信がついてきたのであろう。3章後半では祭司・律法学者たちを公然と批判するまでに至る。すると祭司長たちはペトロとヨハネを捕らえ投獄し「いったい何の権威で、だれの名によってそれらのことを語り、行なうのか!」と詰問した。

彼らは神の権威を傘に着て権威主義的に振る舞った。しかしそれは神を誇る姿勢ではなく、自らを誇る姿に他ならなかった。それは申命記の中で叱責されている「私は自分の力でこの富を(地位を)得た」と誇る人の、思い上がりの姿そのものである。

「誰の名によって語るのか」という問いに対して、使徒たちは「あなた方が殺し、神がよみがえらせたイエス・キリストの名によって語り、行っているのだ」と答えた。そして「わたしたちが救われるべき名は、この名の他に与えられていない。」と返した。「この名のほかに救いなし」と断言したのだ。

ついこの間まではイエスを見捨てて逃げる弱さを露呈していた弟子たち。彼らに一体何が起こったのだろうか。それが「聖霊の導き」だ、というのがルカ(使徒言行録の著者)のメッセージである。私たちはそこに「この名のほかに救いなし」と信じる、その「思い込みの力」の強さを感じたい。

ただしこの思い込みは、万人に当てはまるものとは限らない。そのことも同時にわきまえつつ、私たちが、自分にとってのその「こだわり・思い込み」を抱いて生きる喜びを語ること、それが宣教であり伝道である。