『 洗礼を受ける決意 』

2019年7月7日(日)
使徒言行録8:26-38

洗礼を受けることは、一生に一度の出来事である。なのでその決断を下すには、やはりそれなりの決意があるかどうか、よく考えた方がいいと思う。しかし洗礼に至る決断は、その人と神さま(イエス・キリスト)との間の事柄である。どのような形であるべきか、どんな姿が正しいのかは誰にも決められない。

自分自身のことを言えば、それほど深い知識を得ることや、熟考を重ねた上で洗礼を受けたわけではなかった。また洗礼を受けて劇的な変化が訪れたわけでもなかった。じゃあ何も変わらなかったのか?というと、やはりそれがきっかけで変わっていったことはある。モーターボートのように急旋回はできなくても、タンカーがゆっくり進路を変えるような変化は与えられたと思う。

イエス・キリストは客観的な意味で全人類の救い主なのだろうか?そうではなく、出会う人にとっては救いをもたらしてくれる存在だと思う。ではイエス・キリストを信じない人はどうなるのか。別にどうもならない。大切なのはイエス・キリストに出会うかどうかなのだ。イエス・キリストに出会って「ここには大切なものがある」と感じた人はぜひその思いを掘り下げていって欲しいと思う。

今日の箇所は最初の異邦人のクリスチャンが誕生した場面を伝えている。それはエチオピアの女王に仕える位の高い宦官であった。宦官とは王家(特に女性)に仕えるために、去勢された男たちのことである。仕事のためとは言え、人間としての能力を奪われた彼には、尊厳を奪われた心の空白があったのではないかと想像する。

彼が洗礼を受けたいきさつは次の通りである。ある日初代教会の執事・フィリポが「エルサレムからガザに下る道へ行け」という命を受けて道を進んでいると、そこへ宦官が馬車に乗り旧約聖書の言葉を朗読し(歌い?)ながら進んできた。それはイザヤ書53章「苦難の僕の詩」であった。イエス・キリストの十字架による贖いを預言した箇所である。

フィリポは宦官に「朗読している箇所の意味が分かりますか?」と聞くと、「手引きが必要です」と応えた。それでフィリポは聖書を解き明かし、十字架の出来事に示されたイエス・キリストの救いの物語を伝えた。すると宦官はその言葉を受け入れ、イエス・キリストを信じた。

仕事のために肉体に傷を負わされた宦官にとって、人々のために苦しみを負うイエスの姿は、心の空白を埋めるような癒しをもたらしたのであろう。宦官は水のあるところまで来ると「洗礼を授けてください」と申し出たので、フィリポは彼に洗礼を授けた。

「そんな簡単に!?」と思ってしまう。フィリポに会って半日もたっていないからだ。でも洗礼の決意へ導かれるのに、時間は関係がない。イエス・キリストに出会ったかどうか、それだけが肝心なのだ。

洗礼は信仰の到達点(ゴール)ではない。それは出発点(スタート)だと思う。イエス・キリストに出会って、「この人を信じていこう」という思いを抱いたならば、信仰という「プール」に飛び込むこと。そうすればプールサイドで評論しているだけでは分からない「信仰の喜び」を知ることができる。