『 イエスが再び来られる日 』

2019年8月25日(日)
ルカによる福音書12:35-40

キリスト教の教えの中でも、そのまま受け入れるのが難しいと思われるのが、「再臨」についての教義である。キリスト教に馴染のない人にとっては、かなりおどろおどろしいイメージであろう。「死後裁きにあう」といった脅しや、再臨のイエスを名乗る教祖まで現れる。かなり危うい教義であり、私は正直言って苦手である。

しかしそれがキリスト教の考え方に組み込まれているのは事実である。「苦手だから…」と言ってスルーしてばかりはいられない。再臨信仰を今の時代においてどう受けとめればいいか、その現代的意義を考えたい。

初代教会の時代は、再臨はそう遠い未来のことではなく、すぐにでもやって来るという期待があったようだ。Ⅰテサロニケやフィリピの手紙にはそのような緊迫感が漂っている。しかし2世紀初頭に書かれたⅡペトロになると、「再臨はいつ来るのだ?」といった疑問の声が挙げられ、それへの応答が記されている。その時代に既に再臨遅延の問題はあったということがうかがえる。

今日の箇所は、イエスが終末(再臨)について教えるたとえ話である。主人がいつ帰ってきてもいいように、あかりを灯して備えていなさい、とイエスは教える。これは、地震などの自然災害への備えを怠るな、という教訓と似ているようにも思える。しかし再臨信仰とは、そういうものなのだろうか?私は現代において再臨信仰の意義を受けとめるのは、次の二つのポイントにおいてだと思う。

一つめは「今ある現実が全てではない」ということ。イスラエルの歴史の中で終末(再臨)信仰が大きく受けとめられた時代は、いずれも諸外国による圧政の時代であった。そんな時代の中を「今は苦しみがあるが、いつか神は顧みて我々を救って下さる」と信じて人々は生きた。再臨を信じる心が彼らの希望となったのだ。

もうひとつは、再臨、即ちイエスが再び来られる日とは、いったいどんな日なのか ― そのことを考え行動する、ということだ。再臨の日とは、使徒信条やミケランジェロの絵画が示すような「さばきの日」なのだろうか?いやむしろ、それは「救いの完成の日」なのではないだろうか。

再臨と共に神の国がやって来る。神の国 ― それは神の愛がすべてを支配される理想の世界である。「いつかそんな日がくればいいなぁ、誰かもたらしてくれんかなー」と遠い目をしてつぶやくのではなく、自分もその神の国をもたらすために何ができるか、それを考え行動する。それが「目を覚まして備えている」ということなのではないかと思う。

Ⅱペトロは「神は約束を遅らせておられるのではなく、あなたがた一人も滅びないで悔い改めるよう忍耐しておられるのだ」と語り、「神の日の来るのを待ち望み、それが来るのを早めるようにすべきです。」記す。その「一人も滅びない悔い改めの日」に向けて自分のできることをする。それが私たちの再臨信仰である。