『 赦しと期待の中で 』

2019年9月1日(日)
ルカによる福音書13:6-9

「これもさんびか」の新曲で、こんな歌がある。「♪私は何かを作り出せるから生きていていいのではなくて/私の命は神さまが造られたものだから/ただそれだけで生きていいのだ/生きてゆくのだ/これでいいのだ♪」(「わたしのいのち」中川宗洋)相模原市の津久井やまゆり園事件や、国会議員による「生産性発言」(「同性愛カップルには生産性がない」と発言)のような、「社会の役に立たない人間は存在価値がない」という風潮に対して、「そうではない!」というメッセージが込められている。

キリスト教は「隣人愛」や「共に生きる」ということを大切にする宗教である。しかしそれは一方で「人の役に立つ人間にならなければならない」という意識につながりやすい。間違っているわけではないが、そこからこぼれおちてしまう大切な視点があることも、忘れないようにしたい。

今日の箇所は「実をつけないいちじくの木」のたとえ話である。食事時の楽しみとなる実をつけることを期待して植えられたいちじくの木。しかし3年も実をつけないので、主人は「切り倒してしまえ!」と命じる。旧約の厳しい神・裁きの神のイメージを彷彿させる。

しかし命じられた園丁は「あと1年待ってください。肥やしをやってみます。それでダメなら切り倒して下さい。」と申し出る。実をつけない木のために、間に入ってとりなす園丁。それはまさに、神と人との間で罪の赦しを願い続けるイエス・キリストの働き・姿である。

私はこのたとえを読むたびに、赦されて生きてきた自分の足跡を思う。特に親元を離れていた思春期、周囲の人々を相当に悩ませてきた。それでも私を見捨てず、関わりを続けてくれた人がいた。その関わりがなく見放されていたら、まったく違う人生になっていたかも知れない。

園丁は「あと1年待ってください」と言う。では1年経って、それでも実をつけなかったらどうするだろう?私は確信を持って言うが、園丁はそれでも再び同じことを言うのだ。「もう少し待って下さい」と。それがイエス・キリストによる赦しである。

「その赦しを感謝して受け、生きていきましょう」と終われば、今日のメッセージはすっきりする。しかしどうしても付け加えなければならないことがある。聖書には今日の箇所と正反対のメッセージもあるのだ。「呪われたいちじくの木」(マタイ21:18~)のエピソードである。

イエスがいちじくの木に実を求めて近寄ったところ、実をつけていなかった。それでイエスが呪われると木が枯れたというのである。イエスの「最後のエルサレム行き」と、「神殿粛清」の記述に続けて記されているこのエピソードは、神の愛と赦しを受けながら、それに応えようとしないエルサレム(指導者階級)の姿を象徴しているととらえられている。

イエスの赦しはありがたいものである。しかしその赦しを受けるのみに甘んじ、実をつけない(つけようとしない)状態に居直ってしまう人間のさもしさがある。その居直りを、イエスは決して喜ばれず「それでいいのか!?」と問いかけられるのではないだろうか。

「人の役に立つ人間にならねば!」と力む必要はない。しかしイエスの赦しには、私たちが新しく歩む人となることへの期待も込められている。「実をつけた/つけない」という結果ではなく、「つけようとする」過程を大事にして、赦しに応える生き方を求めてゆきたい。