『 一つになる神の民 』

2019年9月15日(日) 恵老礼拝
申命記32:45-52,ヨハネ17:21-26

教会員のNさんが100歳で天に召された。命の火をまさに灯し続けた大往生であった。昔は90歳をこえると「超」がつく長寿だった。しかし今は身近に何人もの方がおられる。医療の発達や栄養の普及により、私たちの国は「超高齢化社会」。その現状をマイナスにとらえる風潮があるが、「長寿の国」ととらえればまた別の風景が広がる。

人間以外の生き物は次世代を育て終えると寿命を迎える。しかし人間は「その後」がとても長い。これは人間だけが味わえる「特権」である。今日は「恵老礼拝」。老いる自分を嘆くのでなく、老いを「恵み」と受けとめる信仰を育てたい。

今日の旧約の箇所は、出エジプト記のヒーロー・モーセが、その生涯の最期を迎える時の様子を記している。エジプト脱出後も40年にわたる荒野の旅を導き、イスラエルの人々とを励ましたり叱ったりしながら歩んできたモーセ。しかし、いよいよ「約束の地」を望み見るところまで来た時に、「お前の命はここまでだ。約束の地に入ることができない」との神の声が響く。

イスラエルの民の反逆を抑えることができなかったのがその理由だという。具体的には、水がなくて困った時に、神が「岩に向かって『水よ出でよ!』と命じなさい。」と言われたのに対して、モーセはわがままな民への怒り故に岩を杖で2回打ってしまった。それが神への反逆のしるしなのだという。「たったそれだけ?」「そんなささいなことで…」と私たちは理不尽に思う。しかしその神の託宣を、モーセは淡々と受け入れていく。

モーセは約束の地に入ることができなかったのであろうか?確かに彼の肉体は直前で死を迎えた。しかしモーセの「いのち」は、進みゆくイスラエルの民と共に約束の地にたどりついたのではないだろうか。「いのち」とは、肉体的な生命だけを表すのでなく、その人の生きた「人生の意味」のことである。

新約はイエスの最後の祈りである。十字架を前にして語るべきことを語り終えたイエスは、神に祈る。そこで祈られていることは「すべての者が一つになること」である。この「すべての者」とは、残されている(生き残った)弟子たちのことだけなのだろうか?いやそうではなく、もうすでに召された人たちもそこに含まれているのではないだろうか。

かつてM.L.キング牧師は「我々は一つの民となって約束の地を踏む」と語った。そしてその翌日、暴徒によって暗殺された。キングの生命は終わらされたたが、彼の「いのち」は自由と平等を求める仲間と共にその後も歩み続けていったことだろう。

今を生きる者も、既に天に召された者も、共に一つとなって歩む、そんな神の民でありたい。