2019年9月29日(日)
ルカ15:11-32
四国教区の研修会の講師に招かれ松山出張に出かけた時に、夕食で連れて行ってもらったお店の名前が『おかえりなさい』というものだった。店に入るとマスターが破顔一笑「おかえりなさい!」と迎えてくれる。帰る時は「いってらっしゃい!」。そのお店で迎えてくれた牧師たちと話しながら、釈徹宗さんの言われた言葉を思い出し、分かち合った。
ある時、釈さんはこう言われた。「私は、あらゆる宗教が最後に言うべき言葉は『おかえり』だと思うのです」。本当にその通りだ!と思わずヒザを打った。「ただいま」「おかえり」と言える関わりによって支えられている人は、真の平安を知る人だと思う。そして人生の最後、「おかえり」と言って迎えてくれるところがある、と信じられる人は、本当に幸いだと思う。そういうつながりを伝えるのが宗教の役割だと強く感じた。
今日の聖書の箇所は、よく知られたイエスの「放蕩息子のたとえ」である。聖書の言葉の中でも、究極の「おかえり」の物語である。イエスは果たして誰に対してこの譬えを語っているのだろうか。
ルカ15章の冒頭には、イエスが徴税人や「罪人」(と呼ばれた人々)と食事をしていた時、ファリサイ派の律法学者がこれを咎めたことが記されている。ユダヤ教のエリートからすれば、徴税人や「罪人」は汚れた人であり、一緒に食事をするなんてとんでもなかった。
そのクレームに対してイエスは3つの譬えを話される。「99匹を置いて1匹を探しに行く羊飼い」「なくした銀貨を必死に探す女」そして「放蕩息子」のたとえ話である。この3つの話を通してイエスは同じことを言っている。それは、「失われた者」が再び見出された、帰ってきた、そのことを喜ばれる神のみこころである。
放蕩息子の譬え。父の二人の息子のうち、弟は財産の半分の生前贈与を求め、旅に出て放蕩の限りを尽くす。やがて無一文になり飢えて死にそうになったので、父の元に帰る決心をする。「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人と同様にして下さい」。しかし父は、彼が帰ってくる姿を見出すと、遠くから駆け寄り、歓迎し、宴会を催した。
一方の兄は納まらない。自分はまじめにやってきたのに父は牛一頭屠ってくれなかった。それで兄は父に不平を漏らす。弟の帰還を喜べない兄の姿は、徴税人や「罪人」が救われることを歓迎しないファリサイ派の姿そのものである。イエスは彼らを戒める意味を込めてこの譬えを語られたのだろう。
しかし私は弟の側にシンパシィを感じてこの話を読んでしまう。昔から自分自身が弟のようなマインドを持つ少年だったからかも知れない。自分のような者をも見限らずに、関わり見守ってくれた人がいた。そんな関わりを想い起して「弟よ、よかったなー」と思ってしまう。そしてさらに思うのだ。「はたして私は『ただいま』と言えたのだろうか?」と…。
私たちはちっぽけな人間である。それだけでなく、ちっぽけなくせに下手なプライドだけは強いというたちの悪さをも抱えている。心の片隅では「これではダメだ、このままではいけないな…」という思いを持ちつつも、それを素直に認めようとしない。ナナメに構え、「どうせ俺なんか…」と自暴自棄を気取ったりする。
でもそんな私たちの心を、神さまは全部お見通しなのだ。そしてそんな私たちのことを、それでも神さまは待っていて下さる…「おかえり」という関わりを持ち続けて下さる…それがイエスの示される神さまの姿なのだ。そんな神さまを信じ、「ただいま」とすべてを委ねる時が来ることを信じよう。