2019年11月3日(日)召天者記念礼拝
コヘレト3:18-22,ガラテヤ3:26-28
身近な人の死を経験すると、私たちは悲しみを抱く。仲間の死を悲しみ、葬儀を営みそのことを悼むのは、自然界で人間だけだ。喜怒哀楽の感情のうち、喜・怒・楽は他の動物にも見られるが、悲しみを表すのは人間だけではないか。そう思うと、悲しみとは極めて人間的な感情だと言える。
キリスト教信仰では復活のいのち、永遠のいのちへの希望が語られる。しかしそのことを知りつつも、それでも身近な人の死に対する悲しみの感情がなくなることはない。現世ではもうその人には会えないということを、やはりどこかで思っているからであろう。
幼くして実母の死を体験した私には、「死んだ人にはもう会えない」という感覚が抜き難くある。死はロマンチックな物語ではない、厳しい現実だと幼心に叩き込まれたからである。「お母さんにはもう会えないんだ」という冷たい感覚を抱いて私は育ってきた。だからコヘレトの言葉の「(人は)これも死に、あれも死ぬ。すべては塵りから成った。すべては塵に返る」という言葉に、理屈抜きのリアリティを感じる。
けれども、それでは死というものはすべてのいのちの終わりか、というと、そうは思わない。肉体の生命としてのいのちは終わるけれども、その人が生きた証しや人生の関わりというものは、まだしばらくは終わらないと思っている。
先ほど、「母にはもう会えない、という冷たい感覚がある」と申し上げた。しかしある体験から、少し違う考え方をするようになった。あるコンサートで私が歌っている姿を、生前の母の友人が観られ、終了後私に言われた。「あなたも歌を歌うのね。あなたのお母さんも歌の好きな人だったのよ。どうぞ歌い続けて下さいね」。
この言葉をいただいてから、「そうか、歌を歌う時、オレは母と会ってるんだ、共に生きているんだ。」そう考えるようになった。死は確かに冷酷な現実ではある。しかしその死をもってしても断ち切ることのできないつながり・関わりというものがあるのだ。
作家の重松清は、最新作「ひこばえ」の最終章で、そのような「死によっても断ち切られないつながり」への思いを「また、いつか」という言葉に託している。死後の世界や生まれ変わり、幽霊などは信じなくても、さらりと、ごくあたりまえの挨拶をするように「また、いつか」と言える、そんな関わりの中に私たちはつながれているのだ。
「あなたがたは皆、キリストイエスに結ばれた神の子なのです。」とパウロは語る。その「あなたがた」とは、生きて働く人のことだけを指すのだろうか?そうではなく、既にこの世の命を終えられた、天に召された人々も含まれるのではないか。そんな人々のことを覚えながら、「また、いつか」と言えるつながりの中に生かされていることに感謝しよう。