『 自由への旅立ち 』

2019年11月10日(日)
創世記12:1-4、ローマ4:13-25

一ヶ月半日本を熱狂の渦に巻き込んだラグビーワールドカップが、大成功のうちに閉幕した。日本チームが南アと対戦した10月20日は、この大会の招致に尽力した平尾誠二さんの命日であった。日本での開催を夢見ながら、3年前53歳の若さで亡くなったのだ。「この光景を見たかっただろうな…」と思ったが、その後、こう思うようになった。「いや、彼は見たんだ。だから今年この大会が開催できたんじゃないか…」。

夢の実現のまだ欠片もない時点において、その成就を先取りする形で見ることができる人がいる。聖書の伝える「イスラエルの父祖」アブラハムもそんな中のひとりである。

カルデヤのウル、さらにハランという地において、日々の暮らしにあくせくする必要のない、それなりに裕福な暮らしを営んでいたアブラハム。しかし彼にある日主のお告げが降る。「父の家を離れ、私の示す地へ行きなさい。そうすればあなたを大いなる国民の父として祝福する」。

何の保証も確約もない、いわば「口約束」「空手形」である。しかし驚くことにアブラムはその主の言葉に従い旅立つのである。旅立つ時、アブラハムは75歳であった。高齢期を迎えるアブラハムの、少し無謀な決断とも言える。しかしそれでも、彼の決断をうながす「何か」があったのだと思う。

何の確たる保証も受けることなしに、彼は住み慣れた地を離れ、ただ神の言葉を信じて旅立った。聖書は「それこそが信仰だ」と語る。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創15:6)「「彼は希望するすべもなかったときに、なお望みを抱いて信じ、・・・多くの国民の父となりました。」(ローマ4:18)

もし彼が、私たちが家や車や大型家電を購入する時のように、保証書の発行を受け、うまくいかなかった時の保障を示されて決断したのならば、それは「確認」であって「信仰」ではない。信仰とは「望んでいることを確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブライ11:1)なのである。

アブラハムの旅立ちについて、もうひとつのことを思う。彼に決断をうながした、もうひとつの心情があるのではないかと思うのだ。アブラハムは裕福な父の家にいたのでは「手に入れられないもの」を求めて旅立ったのではないか。それは「自由」である。

財産を備えた父の家の暮らしには「安定」がある。しかしそこでは、思いもかけない出会いや驚き、それを知る喜びも得る機会は少ない。親の力に頼らず、自分の力で進む、そこに得られる自由を求めて、彼は旅立ったのではないか。

人生は添乗員がすべてを世話してくれる「パックツアー」ではない。信仰による決断を繰り返し、時に迷い、間違いながら、それでも真の自由を目指して進む旅なのである。