2019年12月22日(日) クリスマス礼拝
イザヤ7:13-14,マタイ2:9-12
クリスマス・シーズンは、プレゼントの季節である。クリスマスプレゼントや年末のお歳暮など、物を贈り、贈り返すやり取りがあちこちで繰り広げられている。贈り物を受け取ると「お返しをせねば…」という気持ちを抱く。こうしてぐるぐるとモノが循環していく。
文化人類学者M・モースによると、この贈与と応酬のコミュニケーションが人類の起源のひとつなのではないかとされる。貨幣経済が始まる前、我々の祖先は自分の必要以上に手に入れた獲物や採集物を、持っていない仲間に贈与した。もらった側は「反対給付」の義務感(お返しをしなければ!という気分)を抱くが、直接返せる関係ばかりとは限らないので、別の仲間に贈与する。こうして、自分の必要なものを人から贈られ、贈り返してゆく…そういうコミュニケーションが人類を大きく発展させてきたのではないかという考え方である。
クリスマスが近づくと、あちこちでモノを贈ろうとする心があふれかえる。それは人間存在の根源を確保しようとする本質的な営みなのかも知れない。聖書も「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録20:35)と教えている。
クリスマス物語にも、贈り物をささげる人の姿が描かれる。不思議な星に導かれてやってきた東方の博士たちが、黄金・乳香・没薬を幼な子と両親にささげた。最初のクリスマスプレゼントである。それは「もらうもの」ではなく、「ささげるもの」なのである。
黄金の価値が高いのは昔も今も変わらない。乳香・没薬は宗教儀式に必要なもので、当時は黄金と同等の価値を持つものであったようだ。博士たちにとって大切な財産であったその宝物を、救い主に出会った喜びによりささげる。それは、まことに救いに出会うことによって、富や財産に執着する心を手放していく人間の姿を象徴している。
あるいはこうも言えるかも知れない。「最初のクリスマス・プレゼント」は、黄金・乳香・没薬ではなく、神さまから人間に与えられた救いのしるし、すなわちイエス・キリストご自身である…救い主イエスこそ、最初のクリスマスプレゼント…そう考えると、博士たちのささげた贈り物は、神さまからの「贈与」に対する「反対給付(お返し)」なのかも知れない。
博士たちはお返しとして手にしていた最高の宝物、庶民にとっては高値の花だった高価な品ををささげた。しかしそのような最高のものを持っていない人、貧しさの中に生きざるを得ない人は、何をお返しとしてささげればいいのだろうか?
イエス・キリストはやがて成長し、神殿でレプタ2つ(たった!)をささげたやもめの姿を絶賛された。金持ちのように有り余る中からではなく、その日の全財産をささげたからである。
クリスマスキャロルの“リトル・ドラマー・ボーイ”は、貧しくい少年のおはなしである。幼な子イエスに贈り物したいのに、貧しいために何もささげられる物を持っていなかった。でも自分の大事にしていたドラムを心を込めてたたくことで、救い主の誕生をお祝いした。そうしたら、幼な子イエスが微笑んだ…そんなストーリーである。
「今のわたしにできること」それを精一杯の思いでささげること。そのこころをイエスは喜んで下さるのである。
♪ Little Drummer Boy ♪ (聖歌隊)
Come they told me
「行こうよ」とみんなが言った
A new born King to see,
新しい王さまに会いに行こう
Our finest gifts we bring
最高のおくりものをたずさえて
To lay before the King
王の前にひざまずこう
So to honor Him
王さまに栄光があるように
When we come.
さぁ、行こう
Little Baby
小さな赤ちゃん
I am a poor boy too,
ぼくも貧しい少年なので
I have no gift to bring
おくりものが何もないのです
That’s fit to give our King
王さまにふさわしいおくりものを
Shall I play for you!
だからあなたのために こころをこめて
On my drum.
ぼくのドラムをたたきます
Mary nodded
マリアさまは うなずき
The ox and lamb kept time
牛と羊がリズムをとる
I played my drum for Him
ぼくは彼のために演奏した
I played my best for Him
こころをこめて最高の演奏をしたんだ
Then He smiled at me
そしたら彼がほほえんでくれた
Me and my drum.
ぼくと ぼくのドラムに