2019年12月29日(日)
イザヤ11:1-10,ルカ2:22-35
「エッサイの根より生い出でたる…」と歌われる讃美歌248番のエッサイとは、イスラエル史上、最も優れた王とされるダビデの父親の名前である。ダビデはイスラエルの民衆にとって理想の人物であり、あこがれの対象であった。
そのダビデへの敬愛と尊敬の念から、「神からつかわされるメシア(救い主)は、ダビデの家系から生まれる」という信仰が生まれていった。そのような信仰を表す言葉が「エッサイの根から若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」というイザヤの預言の言葉である。
福音書にはイエス・キリストの系図が2種類記される(マタイとルカ)。その系図の通り道はかなり違っているが、共通する部分もある。そのひとつがダビデ・エッサイの通り道である。もうひとつ、アブラハム・イサク・ヤコブの通り道も共通する。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」というマタイの記述の通りである。
イザヤの預言の言葉は、メシアとして来る人物への「箔付け・権威付け」として語られたのであろうか?「救い主は、あのダビデの子孫、由緒正しきやむごとなき家系の出身である」と…。ひとつ疑問が残る。もしダビデの威光を誇りたいのであれば、「エッサイの根」などとせずに「ダビデの根から」と言えばいいではないか。
「エッサイの根」と語るところに、イザヤの何らかの意図があるのではないか。想い起すのはサムエルによるダビデの選びに関するエピソード(サムエル上16章)である。エッサイの息子のうち、7人の屈強な兄たちは退けられ、年端もゆかぬ少年であったダビデが選ばれた。キーワードは「容姿や背の高さを見るな。主は心によって見られる」という言葉である。
少年ダビデは「いと小さき者」であるにも関わらず選ばれた…いや、「いと小さき者」だからこそ選ばれた。その神の選びを表すのが「エッサイの根」という言葉なのではないだろうか。その預言では「狼は小羊と共に宿り・・・乳飲み子は毒蛇の穴に戯れる…」と語られる。究極の平和…それが幼な子によってもたらされるとイザヤは言う。「いつそんな日が来るのだ!」という人々の苛立ちに向けて「その日は来る」(11:10)とイザヤは語る。
ルカの降誕物語に登場するシメオンは、長年「救い主に会うまでは死なない」と言われ生きてきた。それは彼にとって祝福というよりは苦しみだったかも知れない。それだけ期待が裏切られることも多かった証しなのだから。しかしシメオンにも「その日」がやってきた。彼が神殿で出会ったのは、威光を身に帯びたカリスマ的人物ではなく、これ以上ない貧しさの中に生まれた幼な子であった。その出会いを喜ぶシメオンの言葉に、究極の救いに触れた人の安堵感が漂う。
いと小さき者、弱き者、そのような弱さを知っている者こそ、神の究極の救いを運ぶメシヤに相応しい…幼な子イエスとの出会いを喜ぶシメオンの姿はそのことを私たちに教えてくれる。「その日はもう来ているのだ」と。