2020年1月19日(日)
サムエル記上3:1-10,ヨハネ1:35-42
街のまん中でいきなり呼びかけられ、それが自分に向けてだとは気付かずに通り過ぎてしまいそうになったことが何度かある。特に「先生~」という呼びかけには馴染んでいないために、気付かないことが多い。どんなに大きな声だったとしても、それが自分宛であることが分からないと、耳に入らないのである。
旧讃美歌第2編83番「呼ばれています」という歌にこんな歌詞がある。「呼ばれていますいつも/聞こえていますかいつも/はるかに遠い声だから/よい耳を持たなければ」。神さまからの呼びかけ。それは私たちにとって「はるかに遠い声」である。私たちはそれに気付かないことが多い。呼びかけを聞くためには、心を静めセンサーを働かせて耳を澄ますことが必要だ。
旧約の箇所は、預言者サムエルの召命の場面である。ある夜、当時仕えていた祭司エリの家で自分の名を呼ぶ声を聞いた少年サムエル。エリのもとへ「お呼びになりましたか?」と行くと、呼んでないという。何度かそういったことがあって、エリはそれが神からの呼びかけであると悟る。そしてサムエルに言うのである。「次に声を聞いたならこう言いなさい。『僕は聞きます。主よ、お話下さい』と。」
2020年最初の礼拝で、「私たち人間は神から呼びかけられる者として創造された」というメッセージを分かち合った。「僕は聞きます。主よ、お話下さい」という言葉は、その呼びかけられる者としての相応しい応答の姿を示している。
サムエルに告げられた神の言葉はどんなものであったか?それは師・エリの家族への厳しい裁きを告げるものだった。「ならず者」の息子たちのせいで、エリの家に災いが降るというのである。サムエルは気が重かった。尊敬するエリにそんなことは告げたくなかったのだ。しかしエリに尋ねられると、隠し立てをせず正直にそのことを話した。預言者は相手が誰であっても、告げられた真実を語る。預言者は絶大な権力者相手でも、決して媚びを売らない、忖度をしない。これはその後のサムエル、そして彼の働きを引き継ぐ代々の預言者に受け継がれる使命である。
新約はイエスの弟子たちの招き。弟子たちがイエスに弟子入りを願うのでなく、イエスの方から呼びかけられる。弟子入りの順序としては、世間とは正反対だ。アンデレ、シモン(ペトロ)、フィリポ、ナタナエル(バルトロマイ)の4人が、いろいろなやりとりを経て弟子になっていく姿が描かれている。
彼らにとってイエスの弟子となるとは、どんな経験であったのだろうか。必ずしも喜ばしい「うれしくてたまらない」と思うような歩みではなかっただろう。静かにガリラヤ湖で漁をしていた日々に比べれば、苦労や苦難の多い道。しかしそこにはそれまでの暮らしでは知ることのなかった人生の意味が深く感じられたことであろう。
彼らはイエスの呼びかける声を聞き、それに応えた。それはある意味いばらの道だった。しかしそれは、この世に生まれてきた意味をしっかり感じられる、祝福された歩みであったのだ。
私たちも耳をすまし、主の呼びかけを聞き取ろう。呼びかけに正しく・ふさわしく応えることができるかどうか、それはわからない。しかし大事なのは結果が正しかったかどうかではなく、「耳をすまし、応えようとすること」なのだと思う。