2020年2月2日(日)
列王記上8:22-30,ヨハネ2:13-25
新型ウィルスに揺れる中国では、政府が感染者のための病院を6日間で建てると宣言した。建設地に何十台ものショベルカーが作業している映像は衝撃的であった。中国がまさに国家の威信をかけて取り組んでることがうかがえる。
今日の箇所(新約)でイエスは「あの神殿を壊してみよ。3日で建て直して見せる。」と言われた。この神殿は、ヘロデ大王が46年もの年月を費やして修復したものであった。聞いた人はみな思ったに違いない。「そんなことできるはずがない!」と。
実はヨハネはひとつの答えを用意している。「イエスの言われる神殿とはご自分の体のことだったのである」(2:21)、つまり「三日目に死人のうちよりよみがえり…」という復活のことをイエスは語っているのだ、ということである。
ところで、このイエスの発言を含むいわゆる「宮清め」の出来事を、他の福音書記者は後半の受難物語の中で語るのに対し、ヨハネは自らの記す福音書の冒頭(2章)に配置する。この出来事を皮切りに、イエスとユダヤ教指導者たちとの対立が深まってゆく。そしてそれが十字架の処刑へとつながっていくのである。
エルサレムの神殿は、ユダヤ人にとって信仰の拠り所であった。ヘロデが修復した神殿は大理石の装飾が施され、それはそれは豪華で立派なものだったようだ。古来より人は大きな建物を建て、そこに己れの栄誉と名声を込めようとする。人を圧倒する権威を示す建物 ― それは必ずその権威によりかかる人を生み出す。イエスの時代の律法学者・ファリサイ派の姿である。
イエスはそのような権威の権化と化した神殿のあり方が気に入らなかったようだ。「3日で建て直す」発言も、そんな思いから出たものであろう。本来人と神をと結び、豊かな人生を歩むための祈りの場である神殿が、逆に人々の暮らしを圧迫するようなものになっていることに対し、イエスの怒りは向かう。
ではイエスは「神殿などくそくらえだ!そんなものはいらない!」と言われたのか?そうではない。「私の家は、全ての人の祈りの家であるべきだ」とあるように、祈りの場としての神殿はイエスにとっても必要だった。
かつてソロモンは、自ら築いた神殿の献堂式においてこう祈ったという(今日の旧約の箇所)。「あなた(神)は人の造ったものの中には住まわれません。ただ僕の願いを顧み、この場所に目をとめて下さい。」この謙虚な祈りの心こそ、イエスの思いに重なるのではないか。
イエスの言われる「建て直す(新しい)神殿」とは何だろうか。それは建物のことではなく、「イエスの名のもとに集まる2人または3人の群れ」(マタイ18:20)のことではないだろうか。パウロはそのような思いに立ちながらこう語る。「あなたがたは神の畑であり、神の神殿なのです。」(Ⅰコリント3:9,17)
私たちには3日で神殿を建てる力も、6日で病院を建てる力もない。しかしイエスの名のもとに集まることはできる。心豊かにしてくれる「新しい神殿」を築いていこう。