『 共に食べる、共に生きる 』

2020年2月23日(日)
出エジプト17:3-7、ヨハネ6:1-15(2月23日)

聖書には「共に食べる」という記事がたくさん含まれている。食べるということ、それは人間が生きていくうえで欠くことのできない大切な営みだ。イエスもそのことを十分知っておられた。だから主の祈りの中で「我らの日ごとの糧を与えて下さい」との祈りを教えられた。「罪の赦し」や「誘惑との闘い」について祈るよりも先に。貧しい人々と共に歩まれたイエスにとって、毎日の食事のことは「どうでもいいこと」ではあり得なかった。

今日の聖書箇所、旧約も新約も食事のこと、共に食事をすることが記されている。それらの食事は、日々を生き抜くエネルギーを得るためだけではなく、ある事柄や交わりを記念する「メモリアル」の意味が込められたものだ。

旧約は申命記、エジプト脱出から荒野の旅の40年を経て、約束の地に向かうにあたって、モーセが神の戒めを「再(申)び命じた」ものだ。モーセはここで、「荒野の40年の苦しみは、神があなた方を試す試練だった」と語る。そして苦しみの中においても神が民を守り養われたことの証しとして、ある食事の風景が記される。

それがマナの奇跡である。エジプト脱出後、食べ物も飲み水も底をつき、人々が神の約束に対する疑いを持ち始めた時、それは起こった。ある朝目覚めると、白いウェハースのような甘いもの、さらにうずらが飛んできて大地を覆い、人々はそれを食べて生き延びることができたという。

このことを人々に述べた後、モーセは有名なあの言葉を口にする。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きる」。人々がマナという不思議なパンを共に分かち合った体験は、神の言葉によっていのち全体が養われたという体験なのだとパウロは語るのである。

マナは決してグルメではない。しかしたとえ粗末な食事あっても、苦難の中でそれを分かち合って共に食べたという記憶は、生涯忘れ得ぬ大切な体験となる(空襲の不安の中で食べたスイトン、災害後の避難所で食べたカンパン、等々)。人々はマナを食べながら、苦難の中を神と共に歩む「ゆたかさ」を想ったことだろう。

新約は五千人の共食である。全ての福音書に記されたよく知られたエピソードであるが、ヨハネ福音書によると、2匹の魚と5つのパンを弟子たちに差し出したのはひとりの少年であったという。その姿を見て周囲の大人たちは、少年の無垢な思いと比べて自分たちがいかに欲深い者であるかを思い知らされ、恥ずかしくなったのではないか。あちこちで分かち合いが始まった。集めたパンくずは12のかごにいっぱいになった…。

イエスは確かに奇跡を起こされた。しかしそれはパン・魚を物理的に増やすという奇跡ではなく、自己中心的な人間が共に生きる存在へと変えられていった奇跡なのだ。

イエスの食卓を見て思うこと。それは誰も排除されない食卓の交わりだということだ。民族、人種、職業、階級、病気や身体の障害などで当時の食卓の交わりから遠ざけられていた人々、しかしイエスは共に食事をされた。「共に食すことは、共に生きること」だからである。

コロナウィルスは心配だ。しかし「共に食し、共に生きる」道をあきらめないようにしよう。すべての人を排除せずに食卓を囲まれたイエスに倣い、私たちも共に食し、共に生きる者となろう。