『 見えるようになること 』

2020年3月8日(日)
列王記下6:8-17,ヨハネ9:13-17

人間が外部から情報を得る手段として、視覚によるものが一番割合が多いという(80%)。その点で言うならば、目の不自由な人は見える人に比べて8割のハンディを負っていることになる。しかし見えている人が「本当に見えているか?」と言われると、答えにおぼつかなくなる。目に入っているはずなのに見えていない、認知されていないという体験は、誰にでもあるだろう。

見えなくさせる理由はいくつかある。①思い込み。「こんな形だった」「こんな色だった」という思い込みが捜しものの発見を遅らせることがよくある。②無関心。道を運転してきて「あそこにあんなお店があったね」と言われて、「そんなん、あったっけ?」という体験は誰にでもあるだろう。③当たり前すぎて認知されない。どんな絶景も、それが「あたり前」だと思って生活してる人の目には入らない(雨晴海岸から見る立山連峰。カイロ市におけるピラミッド)。こういう理由から、たとえ目が見える人であっても、目に入っているものが認知されない…そんな「蒙昧」をかかえながら、私たちは日々生きている。

今日の箇所は旧約・新約いずれも「見えるとは?」「見えないとは?」「見えない者が見えるようになるとは?」といったことについて考えさせられる箇所である。

旧約は預言者エリシャの物語。アラムの勢力との戦いの中で、アラム軍は戦闘を優位に進めるために通りの要所に待ち伏せをしたが、何度やってもエリシャに見破られてしまう。そこでエリシャのいる街を取り囲んで、彼を捕らえようとする。囲まれたイスラエルの人々は恐れを抱くが、エリシャが祈ると火の馬と戦車の幻影が浮かび上がり人々を鼓舞する。エリシャはアラム軍の兵士の目をくらませ、サマリヤのはずれまで誘導する。しかし敵を討ち滅ぼすのではなく、逆に接待をすることによって戦意を喪失させるのである。

非常事態でパニックになりそうな中で、エリシャには状況が見えていた。エリシャの才能もあるだろうが、目的・目標がはっきりしていたこと、そしてそこに神に祈る姿があったことを聖書は伝えている。

新約は、シロアムの池でイエスに癒された盲人についての後日談である。ひとりの人がイエスとの出会いによって癒され救われた。その「喜びの出来事」がファリサイ派の人たちには「見えなかった」。いや、目には入っていたのだが認めようとしなかったのである。

「我々は分かっている。理解している。我々こそ神の御心に従って歩む人間なのだ。」そのような自負(「思い込み」)、救われた盲人、その喜びへの「無関心」、そして宗教指導者としての立場に立ち続けてきた「慣れ(あたり前)」、それらのものが彼らの目を遮ったのである。

そんな人たちに向かってイエスは言われる。「あなた方が『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」と。「自分にはものが見えている(理解している)」という傲慢さから離れ、「自分には正しくものが見えていない(理解していない)のかも知れない」と謙虚に自分をふりかえる…逆説的ではあるがそんな振る舞いの中でこそものを正しく見ることができるのではないか。「思い込み」「無関心」「あたり前だと思う慣れ」を乗り越えて、本当に見える者となろう。