2020年3月15日(日)
ヨシュア24:14-24, ヨハネ6:6-7
新型コロナウィルスの心配の中で、各種行事をどうするか、多くの人々が判断に苦悩している。ただ一つの「正解」があるわけではない中で、それでも判断しなければならない。こういう場合大切な振る舞い方は、個々に判断を下す軸を持ちつつ、他者の判断を否定・批判しないことであろう。
こんな状況の中で、えてして下しがちな判断として「よそではこうしているからウチも…」「まわりからはこう見られているから…」といったものがある。私たちの心の中にも同種の思いがあるのを感じるが、そういった人の目を気にする判断は、結局右往左往する根源になると思う。このような迷う局面に立たされたとき、私たちには頼るべき座標軸が与えられている。
それは「もしイエスが今ここにおられたら、どうされるだろうか?」「神はどのように行動することを求めておられるのだろうか?」ということを自らに問うことだ。正解が見えない中で、私たちは「それでも主に従う」。これが教会の下す判断の「軸」である。
今回のような見えない病原菌への不安の状況においては、イエスの「重い皮膚病の人の癒し」を心に留めたい。医学の発達しない古代社会、「恐ろしい伝染病」と恐れられていた重い皮膚病を身に負う人に対して、イエスはその身体に触れて癒された。みんなが排除する中で、イエスは受け入れ共に生きようとされた。ここに私たちの従う道がある。「病気は恐れても人は排除しない。」そんな姿勢を大切にしたい。
ところが、それは「言うは易く行うは難い」歩みである。今日の聖書箇所は、いずれも「主に従うことは難しいことだ」というメッセージを発している。
旧約・ヨシュア記は、いよいよこれから約束の地へ入ろうとしているイスラエルの民に、ヨシュアの遺言が語られる場面だ。「他の神々に仕えず、ただ主にのみ仕えよ」とのヨシュアの提言にイスラエルは「私たちは主に仕えます」と応えるのであるが、ヨシュアは「いや、あなたがたは主に仕えることはできない」と語る。その言葉通り、欲深い自己中心的な人々は、その後何度も五穀豊穣の神・バアルに膝をかがめてしまうのである。
新約は「命のパン」をめぐるイエスとユダヤ人とのやりとりである。「命のパン」とは空腹を満たすパン(ブレッド)のことではなく、心の空白や渇きを癒す霊的な神の言葉を表すが、ユダヤ人はそれを誤解して受けとめた。「人の子の肉を食べ、その血を飲む」という言葉を文字通り人肉食(カニヴァリズム)としてとらえてしまったのだ。「これは実にひどい話だ。だれが聞いてられようか」と反応した人々、その中にはイエスの弟子たちもいた。
讃美歌507では「♪主に従うことは、何とうれしいこと」と歌われるが、無理解で「自己チュー」な人間にとって、主に従うことは実は簡単なことではないのだ。イエス・キリストの道、それは重い皮膚病の人を抱きしめる道であり、十字架への道であるからだ。しかしそれでも主に従うということ、そこで自己が砕かれ、大切な気付きを与えられ、本当に祝福される歩みへと導かれてゆくことを信じたい。不安多い現実の中、それでも主に従い、歩んでゆこう。