『 ひと粒の麦 』

2020年3月29日(日)
ヨハネによる福音書12:20-36

麦が天に向かって穂を実らせる姿が好きだ。星野富弘さんはその姿を「太陽の弓矢」と名付けた。その絵を見て以来、自分の子どもに「麦」という名前をつけたかったが、「人間らしい名前にしてちょうだい」と言われ、家族から却下された(当時は人名になじまなかった)。その代わりに、現在わが家で飼っているネコの名前が「ムギ」である。

群馬に来て「麦秋」の麦畑の美しさを知った。黄金色に輝く実を結んだ麦の穂が風に揺れる姿は本当に美しい。日本では芽が出てすぐに麦を踏む農法が行なわれる。冬場、霜柱による浮き上がりを防ぐため、そして踏まれることによって修復する成分が分泌され、太く強く実るのだという。

「ひと粒の麦が地に落ちて死ななければひと粒のままである。しかし死ねば多くの実を結ぶ。」今日の聖書の箇所のイエスの言葉である。蒔かれた麦の種が、芽を出し茎を太くし葉を茂らせてゆくに従って、最初の種は養分を送りながら朽ちてゆく。その姿と、自身の十字架の死、それによる人々の救いとを重ね合わせて語られるのである。

この言葉を読むたびに想い起こす詩がある。

“ 一本のライ麦の話をしよう。
一本のライ麦は、一粒のタネから芽をだして、
日の光と雨と、風にふかれてそだつ。
ライ麦を生き生きとそだてるのは、土深くのびる根。
一本のライ麦の根は、
ぜんぶをつなげば600キロにもおよび、
根はさらに、1400万本もの細い根に分かれ、
毛根の数というと、あわせてじつに140億本。
みえない根のおどろくべき力にささえられて、
はじめてたった一本のライ麦がそだつ。
何のために?
ただ、ゆたかに、刈りとられるために。”

(『ライ麦の話』吉野弘)

ただゆたかに刈りとられるために…。そのために自らの身を朽ちさせて実りを結ばせてゆく…それがイエス・キリストというひと粒の麦である。では、その「ゆたかな刈りとり」とは何か?それは私たち自身のことではないか?イエスの生涯、その生と死に示されたメッセージを身に受けて、豊かな実を結ぶ者となろう。

私たちは今、大きな苦悩・試練の中にいる。目に見えないウィルスによって見えない不安が広がり、心が追い詰められている。しかしこの試練の中を、イエスの生き方に導かれながら過ごしたい。いつかこの試練が過ぎ去った時、以前よりも少し強く、豊かな心を持つ者へと成長させられていくことに希望を託したい。踏まれても、踏まれるほど、強く実る麦の穂のように。