2020年4月5日(日) 棕櫚の主日
創世記22:6-12, ヘブライ10:11-14
長女と孫たちが春休みを利用して遊びに来ている。1歳になる孫娘の表情や動作を見ていると、胸が「ワサワサ」する。オキシトシンという母乳の促進をするホルモンの作用らしい。子育てから遠く離れた自分の心に、まだそんな部分があることに驚いている。
古来より人間はそのような心を抱きながら子どもを育ててきた。その愛すべきひとり子を「犠牲の供え物としてささげよ」と命じられたのがアブラハムである。年老いてようやく授かったひとり子イサクを、燔祭(焼き尽くすいけにえ)としてささげよというのである。
世の親のうち、誰がそんな命令に従い得ようか。しかし聖書はその理不尽にも思える命令に淡々と従うアブラハムの姿を記す。その内面にどんな思いがあったのかは何も記されない。
物語の理不尽さ故か、この箇所には様々な解釈が試みられてきた。宗教改革者、神学者、ユダヤ学者、哲学者… しかしどれも歯切れが悪く、すっきりと納得するものは見られない。ただ、私が神学部で学んでいた時「これこそユダヤ人だ」と教授が言われたのを覚えている。即ち、人間の心情よりも神の思いに優位を置こうとする、それがユダヤの信仰なのだ、と。
結果的に、子どもを殺める前に神の言葉が臨み、代わりの小羊が与えられる。「なんなのそれ!?」と思う。少し違う問いを立ててみたい。アブラハムは迷わなかったのか?苦しくなかったのか?きっと苦しかったに違いない、と思う。この物語を読んできたユダヤ人たちも、きっと苦しみを覚えつつ読んだに違いないと思う。それこそが、歴史の中で「何なのそれ!?」という苦難を体験しながらも、それでも神を信じて歩んできた民なのだと思う。
その「ひとり子を犠牲にする」という苦しみを、他ならぬ神ご自身が引き受けられた… それが十字架の出来事だ、と新約聖書は語る。ヘブライ書では「祭司は礼拝の度ごとに生贄をささげるが、キリストはただ一度十字架にかかり、永遠の生贄となられた」という「受けとめ方」記すのである。
「神のひとり子の犠牲による永遠の救い」そのことを端的に表すのがヨハネ3:16の言葉である。「神はひとり子をお与えになったほどに世を愛された。信じるものがひとりも滅びないで永遠の命を得るためである」。多くのクリスチャンはこの聖句が好きだ。そこまでして人間を救おうとされる神の愛に感謝を覚え、喜んでいる。しかしそこで、ひとり子を犠牲にされた親の苦しみをどれだけ感じているだろうか?
自分が救われたその背後に、誰かの大きな苦しみがある… そのことを知った者は、ただのん気にその救いを喜ぶだけ、という所には止まり得ないはずだ。「救われたことを喜ぶな」ということではない。むしろ本気で喜ぶべきだ。でもそれを本当に喜ぶためには、ひとり子を犠牲にされた神の苦しみに心を向けなければならないのではないだろうか。
ひとり子イエスのいのちによって、あがなわれ、救われた自分自身を、そして同じように救われた隣人を、かけがえのない大切な存在として受け入れよう。今ここ(礼拝堂)にいる人も、種々の判断で一緒にいられない人も、祈りを共にし心をつなげよう。
♪ 讃美歌314
失われた人を愛し ひとり子を世に送られた
天にいます父なる神に 感謝ささげよう
♪ 讃美歌69
暗闇を恐れず 進みゆこう共に
罪と死に打ち勝つ 主がおられる
神はそのひとり子を十字架につけて
招かれる わたしたちすべての子どもを