2020年4月19日(日)
ヨハネ20:24-29
礼拝堂での礼拝をお休みすることになった。残念な思いの中で気付いたことが二つある。ひとつは共に集まる礼拝がいかに大切なものか、ということ。もうひとつは、離れていても、むしろ離れることによって心がつながることがある、ということである。
遠く離れても共に祈ることで心をつなげる… それは歴史の中でユダヤ人が歩んできた道でもある。バビロン捕囚期やディアスポラの経験の中で、離れた場所で共に祈るという営みを通してアイデンティティを保ち続けてきたのだ。
それは遠く離れた家族を想う気持ちに似ている。離れ離れになっても家族の絆はなくならない。むしろ離れていることによって、互いのことを想う気持ちが強くなるのである。教会は「神の家族」である。今回の試練の中で、そのつながりに改めて思いを向けたい。
今日の聖書はトマスの物語である。イエスの復活を知らせる他の弟子たちの言葉に対し、「あの方の手の釘穴に指を入れなければ信じない」と返した。このことから「疑い深い実証主義者」とのレッテルを貼られたトマス。彼は不信仰な弟子だったのか?
少し違う視点で考えてみたい。ヨハネ福音書ではあと2ヶ所トマスが登場する場面があるが(11:16、14:5)、いずれも一途にイエスに従い、真理を求めようとする姿として描かれる。そんなトマスが「イエスの復活など信じられない。」と言うのである。本当に信じられなかったのか?信じたくなかったのだろうか?
今日の箇所に、弟子たちがイエスの復活に出会った時「トマスは一緒にいなかった」と記されていた。イエスのいのちと再会できた喜びの時に一緒にいることができなかった… そのことが悔しかったのではないか。自分の不運を呪いたかったのではないか。「オレは認めないよ!」― それはトマスがイエスを大切に思う気持ち、その裏返しの言葉だったのではないだろうか。
そこにイエスが現れる。そしてトマスに「私の手の釘の穴に指を入れなさい」と言われる。「私の主、私の神よ」と返したトマスに「見たから信じたのか。見ないで信じるものが幸いだ」と言われた。イエスはトマスを咎められたのだろうか?叱られたのだろうか?
想像してみよう。その時イエスはどんな表情をしていただろうか。怒ってた?呆れてた?私はにこやかに微笑んで、あるいは高らかに笑いながらそう言われたのではないかと思う。それはトマスの強がりを「しょうがねぇやつだなー」とにこやかに包みながら導こうとされるイエスの姿である。
最初の復活顕現の時、トマスはそこにいなかった。けれども「そこにいなかったあなたにも恵みはあるよ。神さまの祝福はあるんだよ。その恵みを信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」とイエスは語りかけられたのではないだろうか。
「そこにいなかった存在」「遠く離れている存在」「目で見て確かめられない存在」ということで言えば、神さまもそんな存在である。私たちは神の存在を「確認」することはできない。神さまは私たちから遠く離れている。しかしそのことは、必ずしも私たちの信じる気持ちを減退させない。むしろ離れているから、確かめられないから、「信じたい」と願うのである。
いま遠く離れて礼拝をささげている仲間たちと、心をつなげよう。その信仰による絆が信じられる時、私たちはたとえ身体は遠く離れていても、「わたしたちはひとりではない」のだ。