2020年5月10日(日)
エゼキエル36:24-28,ガラテヤ5:13-25
私たちは今、イースターからペンテコステに向かう「あいだの季節」を過ごしている。それは「イエスのいのち」の「確かさ」と、「イエス不在の歩み」という「不確かさ」の「あいだの時期」でもあるということだ。そんな中で弟子たちに与えられたものがある。それが「聖霊の導き」だ。
ペンテコステの出来事。「激しい風と炎のような舌」という象徴的な描写がある。しかし実際には、そんな劇的な出来事というよりは、「そう言えばあの時…」とあとで分かる形で、少しずつ、徐々に注がれていった…そういうものではないかと思う。
旧約はエゼキエル書。自らバビロン捕囚民となった祭司・エゼキエルの預言の言葉である。彼は祭司と預言者という二つの職能を担いながら、人々に神の言葉を伝えた。即ち民が浮かれ冗長している時には戒めを、捕囚の苦しみに絶望している時には民族復興の幻を語ったのだ。
今日の箇所は後半、国破れて絶望する民に再生の希望を語る言葉である。失意の人々に神は「新しい心、新しい霊を与える」「石の心を取り除き、肉の心を与える」と語られる。「石の心」、それは「どうせダメだよ…」と固くなって動かない心だ。「肉の心」とは柔らかで、変わりゆく心である。新たな希望に向かう「肉の心」、それが聖霊の導きによって与えられるというのである。
新約はガラテヤ書。パウロの最も活動初期に記された手紙だ。キリストの弟子となって宣教活動を担い始めた時期の、情熱溢れるパウロの言葉が記される。初代教会のエルサレム会議の影響をうかがわせる形跡もある。異邦人伝道に使命を抱き活動していたパウロに対し、ユダヤ主義者からの中傷や妨害があったこともうかがえる内容で、それら論敵への厳しい非難の言葉も記されている。
そんな文脈の中でパウロは「霊の心」と「肉の心(欲望)」について語る。エゼキエルではよきものとして評価された肉の心が、ここではこの世の欲望に引きずられる心として、むしろ戒められるものとして取り上げられる。
ここでパウロが示すのが「善悪二元論」。霊の導きと肉の欲望、それらによって生じる人間の行動を二つに分け、一方は乗り越えねばならない「忌むべきもの」、一方は神の国を受け継ぐ「善きもの」として提示する。そして自らは善の側に立つことを意識し、他方を否定するという論法である。
パウロの善意を否定するものではないが、私はこのような文章を読むと何とも言えぬ「息苦しさ」を感じる。「我は正義の側にいる」と躊躇なく語れる姿に、「コロナ自警団」に通じるような危険なものを感じてしまう。人間の心とは、そんなに簡単に白黒分けられるものではない。もっとあいまいなものである。それでいい、そこから始めるしかないのではないか。
聖霊の導きが与える心とはどんなものか?どんなピンチの時も間違うことなく、いつも正解を下すことができる心だろうか?そうではなく「肉の心」ではないだろうか。それは悩む心、迷う心である。けれども決めつけないで、変わりゆく心、迷いつつ進んでゆこうとする心である。
私たちは完璧な存在ではない。そんな自分と隣人を受け入れ、信頼し、認め合い赦し合える「肉の心」を求めて生きる者でありたい。