2020年5月24日(日)
列王記下2:6-10,ヨハネ7:28-39
5月21日は昇天日、復活のイエスが40日間弟子たちと共に過ごした後、天に昇られた日であった。頼れる「師」が再び不在となる出来事に、弟子たちの心には不安や心配が渦巻いていたことだろう。免許取り立てで初めて公道を走る新米ドライバーのような気持だったのではないか。
マタイ福音書では一番最後に「わたしはいつもあなたがたと共にいる」というイエスの言葉が語られる。一方ではいつも共にいるイエス。しかし一方では天に昇るイエス。「どっちなんじゃい!」けれども、大切な人との関わりとはそういうものではないか。
どんな頼りになる人でもずっと一緒にいられるわけではない。いつか別れねばならない。しかし離れてしまってもその人との関わりがなくなるわけではない。むしろ離れているからこそ絆が強く深く感じられることがある。その人の不在と共在を同時に感じるという体験である。
ヨハネにはイエスの「帰天の予告」が記される。父の元から来たイエスは、やがて再び父の元に帰るということが、福音書の前半部分で既に語られているのである。
16章では「わたしが去っていくことはあなたがた(弟子たち)のためになる」とも記される。なぜためになるのか。それは、イエスが去ることで「パラクレートス=弁護者」、すなわち聖霊の導きが与えられるから、というのである。ここから先は聖霊の導きを受けて、弟子たちが自分で歩いていかねばならない。そこに彼らの成長が与えられる。それが「あなたがたのためになる」のである。
旧約はエリヤの昇天の場面だ。それは後継者・エリシャへの預言者代替わりの出来事でもある。昇天を前にして、エリヤはエリシャに「あなたの願いを言ってみよ」と尋ねると、エリシャは「あなたの霊力の2倍を下さい」と欲張りな願望を語った。
それに対してエリヤは答えた。「私が取り去られるのを見届けよ。そうすれば願いはかなえられる」。それは「師の不在を受け入れよ。しっかりと見届けよ」ということである。はたしてエリヤは天に凱旋し、エリシャにはエリヤの上着だけが残された。その上着を手にしてエリシャの新たな預言者としての歩みが始まる。
旧約・新約とも、「師の不在の中を目に見えない導きを信じて歩む」というテーマを語っている。そのテーマを分かりやすく示してくれる絵本がある。『ラチとらいおん』。小さな赤いライオンに導かれる、ひとりの少年の成長物語である。
https://www.youtube.com/watch?v=TYCtO-Gnr3I
ラチは「ライオンが一緒にいる」と思うことで勇気を奮うことができた。たとえライオンの姿は一緒にいなくても、心のつながりが絆となり力を与えるのである。
昇天日の弟子たちの姿もそれと同じである。それは頼りないものだっただろう。けれどもそこには「これからはあなたがいなくても…」という、ささやかな、しかし確かな覚悟があったに違いない。そこに「ふしぎな風」が吹いてくる。ペンテコステ(聖霊降臨日)まで、あと一週間…。