2020年7月12日(日) 創立134周年記念日
ヨハネ4:46-53
群馬の明治期のクリスチャンには、生糸関係の人が多い。高品質の生糸は西欧諸国で人気が高く、その売買に関わる中でキリスト教と出会い入信した人たちである。そこにはクリスチャンになれば商売に有利という「打算」があったかも知れない。しかし、どんなきっかけであっても、そこで出会い大切に受け継がれてきたものがあったなら、それでいいのではないか。
今日の箇所はイエスによる癒しの物語である。病気で死にかかっていた息子の父親(役人)が、イエスによる癒しを求めてカナの街にやってきた。イエスには人を癒す不思議な力がある…そんな噂を聞いて、自分もそれを受けたいと願いやってきたのである。これは切実な願いである。しかし、別の視点で見れば「自分の願い=目的を果たしたい」という「打算」である。
願い出る父親にイエスは「あなたがたはしるしを見ないと信じない」とつれないことを言われる。いじわるを言っておられるのだろうか?そうではなく、この父親の本気度を確かめようとしておられるのではないか。
冷たく突き放されても父親は引き下がらない。「息子が死ぬ前に、ぜひ…」と粘り強く願い出る。その姿に「本気の願い」を感じられたのか、イエスは「帰りなさい、あなたの息子は生きる」と言われた。帰ってみると息子は治っていた。
何が起こったのだろう?イエスがここでふしぎな力を飛ばして、離れたところで(リモートで)病気の息子を癒されたのだろうか?会うことも、指一本も触れることなく、病気を癒すなどということが可能なのだろうか。イエスはそういう力を持つ超能力者だったのだろうか?
ひとつの言葉に注目したい。最初冷たくあしらわれたが、その後イエスが「あなたの息子は生きる」と言われた時、父親は「イエスの言葉を信じた」と記される。この時点で、まだ彼は息子が癒されたことを知らない。情報が入っていない。しかし彼は信じた。「信じる方に賭けた」のである。
イエスは何もしなかったのかも知れない。父親の息子を思う心、それに応えて治ろうとする息子の中の力、それが病気を癒したのであって、イエスの超能力ではないのかも知れない。他の癒しの場面でイエスはしばしばこう語られる。「あなたの信仰があなたを救った」。この癒しの奇跡もまた父と子の「信じる力」による奇跡なのかも知れない。
ただ、ここで間違ってはならないことがある。確かに信じる力によって病気が治ることはある。しかし逆に治らなかったなら「信仰が足りなかったからだ」ということになるのだろうか。そんなことは決して言えないと思う。残念ながら治らずに亡くなる事もある。しかしそれは敗北でも、神から見放された出来事でもない。
たとえ病気が治らなかったとしても、その事実を受け入れて、最後の時に至るまで絶望せず全てを神に委ねることができたなら、そこには癒しがある…そう思う。そしてそのような人のいのちは、たとえ死んでも終わらない。肉体の生命活動は終わっても、その「いのち」は終わらない。その姿に出会った人の思いと記憶の中で、いつまでも生き続けるのである。
「たとえ死んでも生きる」そのようないのちのとらえ方があることを示そうと、イエスは「あなたの息子は生きる」と言われたのではないか。そしてご自身の十字架と復活に向かう生涯を通して「たとえ死んでも生きるいのち」を示されたのではないだろうか。
父親がイエスのもとを訪ねたのは、「息子を直してほしい」という願いがきっかけだった。切実なものではあるが、彼自身の人間の側の事情である。しかしそのきっかけでイエスと出会ったことによって「たとえ死んでも生きる」ということを信じる信仰の力を見出すことができたのである。
たとえ死んでも生きる。そんな永遠のいのちへの信仰、それが教会が受け継いできた大切な「信じる心」である。創立記念の日にそのことを確認し、この信じる心を求め続け、語り伝え続けよう。