『 お前はまだ生きている 』

2020年7月19日(日)
ヨハネ5:24-29

人類はその進化の初めから「死」を意識し、死後自分がどうなるのかについて不安を抱えながら生きてきた。その心配にひとつの答えを示してきたのが宗教である。キリスト教では天国で永遠の命を得る、と教えられてきた。ではその天国にはみんなが行けるのかというと、そこに境界線が引かれる。最後の審判によって永遠の命に至る者と永遠の裁きを受ける者とに分けられる…というのである。

永遠の命を得たければ、生前しっかりと信仰に励め、と教えられた。特に迫害の時代には、このような終末論が人々の信仰を支えた。その意義は十分わかるが、「滅びの宣告を受けたくなければキリスト教を信じろ」といった、脅しによる宣教方法には大きな疑問を感じる。

イエスが永遠の命について語り、教えられる場面である。21-24節の記述には、先ほどの「最後の審判」の考え方が反映されている。ヨハネ福音書執筆の時期は、ローマ帝国による初代教会への迫害が始まった時代である。人々の終末信仰への思いが、この箇所に反映されているのかも知れない。

ただ、ひとつ気になる言葉がある。「自分の内に命を持つ」(26節)。この言葉には、永遠の命とは「死後のもの」というよりは、今この時に持つもの、というニュアンスを感じる。そのようなニュアンスを覚えながら25節を読むと、また違った意味合いが浮かび上がってくるように思う。

イエスは確かに永遠の命について語り、人々に「それを得なさい」と教えられた。しかしイエスが言われたのは「死後、永遠の命に至る座席指定券を手に入れるために、今この時の信仰に励め」ということだったのだろうか?そうではなく、むしろ今この時に永遠の命に出会い、それを手に入れなさい、ということではなかったかと思う。それは「死後の世界・将来への約束」といった時間軸におけるものではなく、今この時に生きることの意味・喜びに出会えた、その一瞬の「輝き」のことではないだろうか。

ドロテー・ゼレは「人はパンのみで生きるのではない。パンのみによる生は死を意味する」と語った。パン(自分の利益・必要物)だけを求め、他の関係性は「必要ない」といって切り捨てる生き方は、生物としては生きていても、人間としては死んでいる、という警告である。そのような「生きながらにして死んでいる人々」に対して、本当に生きるとはどういうことかを教えられたのがイエス・キリストだ。

「永遠の命を得る」と言っても、何か特別なことをすることは必要ない。人間同士のささやかな関わりの中で、愛をもって仕え合う。そこに永遠の命に至る輝きがある。そしてそこに向かえる心を持っている限り、「お前はもう死んでいる」(by ケンシロウ)のではない、「お前はまだ生きている」、イエスはそう言って私たちひとりひとりを招かれるのだ。招きに応え「いま・この時」に永遠の命に出会おう。