2020年7月26日(日)
イザヤ43:1-5
バビロン捕囚後期に活動した預言者・第二イザヤによる言葉である。大きな絶望の苦しみを体験した人々が、「もうダメだ、何をやってもムダだ…」と自信を失い、自暴自棄になっていたのに対して、「これから新しい時代が始まる。神がもたらして下さるのだ。」という希望をイザヤは語る。
ここでイザヤが示したのは、天地の創造主である偉大な神の姿だ。しかしそれは決して勇ましく猛々しい神の姿ではない。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなる灯心を消すことがない」(42:3)という言葉に象徴されるように、力ある神がわめき立てることなく、ドーンと構えて人々を受け入れ、安らぎと慰めを与える…そんな神の姿を示すのだ。
「イスラエルよ、あなたを造られた主は言われる。あなたはわたしのもの、わたしはあなたの名を呼ぶ」。これは宇宙の創造主であるMAXな神が、宇宙からすればちっぽけな砂漠の砂粒の上の最近のような小さな存在であるMicroなひとりひとりの人間に、目をとめ名前を呼ばれる…そのようないつくしみ深い神の存在を語るのである。
捕囚の苦しみの中で、自分の存在意義を見失いかけている民に向かって、イザヤはこんなメッセージを送っているのだ。「我々は確かにちっぽけな存在だ。無力だ。しかし価値のない、生きる意味のない存在ではない。なぜなら偉大な神さまが、ちっぽけな『わたし』に目をとめ、その名前を呼んで下さるからだ!」。
聖書を読んでいて「旧約は裁きの神、新約は赦しの神」という感想を聞くことがある。確かに旧約には民を裁く神の物語がいくつも記される。しかしイザヤに言わせれば「それは当然だ」ということになるのだろう。旧約の神の厳しさ、それはそれだけヤハウェがイスラエルのことを愛しておられる、その裏返しだからである。「どうでもよい」と思える存在なら、厳しく迫らず見逃されるだろう。怒りや憤りは、相手を大切に思うからこそ生まれるのである。
「わたしはあなたと共にいる」、神はそう宣言される。聖書ではそれを「インマヌエル」と呼ぶ。北九州でホームレス支援を続ける奥田知志牧師は「キリスト教は長く『問題解決型』の救いを述べてきた。しかし今こそ『インマヌエルの救い』をこそ取り戻さなければならないのではないか」と語っておられた。条件をつけて救うのではない。その存在を丸ごと受け入れて、その上で生き方の変革を迫る、そのような関わりこそが人を救うのだ、と。そしてそのポリシーをそのまま野宿者支援の活動の中で展開しておられる。
大きな傷を負った人々を、インマヌエルの神が救いへと導かれる。このインマヌエルの救いをよりはっきりと示されたのが、イエス・キリストだ。病の人、貧しい人、社会から落ちこぼれ、切り捨てられた人を訪ねて歩き、「神はあなたを愛しておられる。あなたは決してひとりではないんだよ」と語り続けられたイエス。この方こそ、まことの救い主なのだ。