2020年8月2日(日) 平和主日
エフェソ2:14-22
「キリストはわたしたちの平和です」とパウロは語る。それは「ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、十字架によって敵意を滅ぼされたからだ」というのである。ここには「平和」の対立概念として「敵意」という言葉が挙げられる。今日はその敵意とは何か?ということについて考えてみたい。
新型コロナウイルスによる状況の中、現代世界の超大国であるアメリカと中国との間に敵意が芽生えている。国際政治学者グレアム・アリソンによると、過去500年の間に№1と№2の覇権争いが16事例あり、そのうち12で戦争になっているという。その理由は、覇権国家が新興勢力に対して覚える不安と恐怖によるというのだ。
16の内12は戦争になった。ということはならなかった4つの事例がある。その4つに学ばなければならない、とアリソンは言う。4つに共通するのは、互いに相手の状況をよく知っており、相手の立場を慮ることができ、自制が効き交渉ができたからだそうだ。裏返せば、相手をよく知らない・知ろうとしない態度が不安と恐怖を生み出し、敵意に至る…ということが言えそうだ。
しかし「相手をよく知らない」・・・ そのことがいきなり敵意の原因になるわけではない。幼い幼児が向き合っている。よく知らない相手、そこに不安はあるが敵意はない。しかし敵意が生まれる瞬間がある、自分が遊ぼうと思っていたおもちゃを取られた…その瞬間に敵意が生まれる。利害が対立し、自分の利益を優先しようとすることが最初の原因だ。
私はここで「皆さん、そのような敵意を持たないようにしましょう」というきれいごとを言いたいのではない。自己中心と相手への無知に基づく不安、その中で敵意を抱いてしまうのは、生き物の本性のようなもので、しかたがないことだと思うのだ。
ただしそこで、「その敵意の原因は自分の中にあるのだ」ということに気付けるかどうかが肝要だと思う。敵意の根拠を相手の中に求めると、私たちは自制が効かなくなる。際限なく相手に怒りをぶつけてしまう。しかしそれが自分の中にあることに気付ければ、立ち止まって考えることができるのではないか。
「キリストは十字架によって敵意を滅ぼした」とパウロは語る。どういう意味か?それは「敵意を生み出す人間の本性とは正反対のものがキリストの十字架にはある」ということではないか。ではその十字架とは何か?それはイエスが隣人のために命を捨てたということだ。
自分の命・生涯を自分の利益・目的のために用いるのではなく、隣人の救いのために命を賭けて生きられたイエス。そのイエスの生き様にこそ、人間の自己中心や相手のことを知ろうとしない「無関心」とは対極のものが宿っている…それに触れることによって敵意が打ち砕かれ新たな生き方が開かれる…パウロはそんな展開を望み見ていたのだろう。
本当の敵は自分の中にある…そのことに気付ける者でありたい。自分の中にある自己中心な思い、無関心、そんな己れの姿を知り、イエスに学ぶことによって、敵意を乗り越え歩みたい。