『 誰がふさわしいのか 』

2020年8月9日(日)
Ⅰコリント11:23-29

パウロが主の晩餐、すなわち聖餐式について述べた箇所である。パウロは「ふさわしくないままで主のパンを食べ杯を飲んではならない」と記している。この箇所を根拠に、キリスト教では聖餐式に陪餐できるのは洗礼を受けた信徒だけ」という、クローズの形式を伝統的に受け継いできた。

クローズ聖餐の根拠はもう一つある。初代教会の時代に重要視された『十二使徒の教訓(ディダケー)』という文書の中に、こんな言葉がある。「主の名によってバプテスマ・洗礼を受けた者以外は、誰もあなた方の聖餐から食べたり飲んだりしてはならない。これについて、主は『神聖なものを犬に与えるな』と言われたからである。」ここには明確に聖餐式のクローズの指示が記されている。

しかしパウロの記す「ふさわしくないままで」というのは、本当にクローズの根拠となる言葉なのだろうか?文脈をよく読むと、そうではないことが分かる。23-26節に記されるのは「主の晩餐の制定の言葉」、これは当時の礼拝の中で行われていた聖餐式の式文である。その制定語の直前にパウロが記している事柄、17-22節に今日の箇所を読み解く手がかりがある。

コリントの教会は大変問題の多い教会であった。その一つに教会に集う信者たちの「仲間割れ」があった。このことについてパウロは「ほめるわけにはいかない」と記している。その仲間割れの一つの現実として、主の晩餐(聖餐式)に一緒にあずかれないということがあった。

当時の礼拝は夕刻に行われ、「主の晩餐」を含む食事を共にすることも礼拝の中の一部であった。共に食事をすることは神の家族の証しだったのだ。ところが実際には先に来た者たちが全部食べてしまい、遅れてきた人の分が残っていなかった。空腹の者がいる一方で酔っ払っている者がいた。

先に来て食べた人たちの多くは、裕福な人であった。なぜ彼らは残しておかなかったのか?それは「自分たちこそ主の晩餐を食べるに相応しい人間、あの貧しい(遅刻してくる)連中は、相応しくない人間だ!」という決めつけがあったからではないか。それはイエスが度々批判された律法学者・ファリサイ派の人々の姿そのものである。

イエスが教えられた最も大切なこと、それは「共に生きる」ということである。その姿勢を失っていたことこそ「ふさわしくない」とパウロは厳しく戒めるのである。

では聖餐にあたって誰がふさわしいのか。「神の祝福を受けるのに、自分こそふさわしい人間だ」と自分で思い込んでいる人は「ふさわしくない」。逆に「私のような取るに足らない人間はとてもふさわしくない。ただ神の憐み、イエスの赦しに委ねるしかない…」そう思う人間こそ「ふさわしい」、そう言えるのではないか。

しかしそれよりも大事なことがある。それは「共に生きる」姿勢があるかどうかだ。教会の中だけでなく、すべての人と共に生きようとしているだろうか…自らにそのように問うことこそ「ふさわしい者」としての振舞いなのだ。