2020年9月6日(日)
出エジプト13:17-22、エフェソ5:11-20
人類の歴史は夜の闇との闘いであった。自然界の中で特に屈強ではなかった人類の祖先たちにとって、夜の闇は大きな恐怖だったろう。しかし人間は火を手に入れる。そのことによって格段に利便性を向上させ、生活圏を拡大していった。
エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民を、「昼は雲の柱、夜は火の柱」が導いたと記される。夜の闇を導く火がいつも共にあること、それは新天地に向かう人々にとって、大変心強いものだっただろう。
人間にはもう一つの闇との闘いもあった。それは心の闇、人間の心の奥底に潜む、罪や悪との闘いである。物理的な闇の克服が科学の働きであったのに対し、心の闇との闘いは宗教や道徳、哲学の課題であった。聖書にはその闘いを「闇と光」のモチーフで語る言葉がたくさん記される。
エフェソ5章にもそのような言葉が記されている。「光の子として歩みなさい」(5:8)、「暗闇の業に加わらないで、それを明るみに出しなさい」(5:11)、「すべてのものは光にさらされて、明らかにされます」(5:13)。これらの言葉を読んで私たちは思う。「闇は邪悪なもの、克服すべきもの。光はよきものであり、目標・理想である」と。それは間違いではないが、そこには大きな落とし穴があると思う。
心の闇を乗り越えようとすることは大切だ。しかし私たちが聖書を通して「光」に触れたとしても、それで闇がすべて払拭できるものではない、ということだ。
地面に生える苔や雑草を「取り切った」と思っても、次から次にまた生えてくる。同じように私たちの心の闇も、完全に排除できる訳ではない。「できる」と思ったら、それは思い上がり。私たちは生きる限り闇と共に歩まねばならない…だからこそ、毎週の礼拝が必要となるのではないだろうか。
火の柱に導かれて約束の地に向かうイスラエルの民も、イエス・キリストに導かれて歩んだ弟子たちも、何度も過ちを繰り返してしまう弱い姿、闇を抱き続けながら生きる姿である。私たちも同じ、そこから始めるしかないのだ。それに、闇は私たちに悪しきものだけをもたらすのではない。闇を知るからこそ見えるもの、与えられるものもある。
東日本大震災、大津波によってあちこちが壊滅したその夜、大停電となった東北各地では満天の星空が広がったという。ふだん人工の光に溢れて見えなかった星の輝きが、深い夜の闇が広がることによって見ることができた。そしてその輝きに多くの人が慰めを受けたのだ。
闇の中に輝く星は、人間の進む道をも示してくれる。古代の人々が砂漠や大平原や大海原を旅する時、導いてくれたのは星の輝きである。「夜は火の柱」とは、そんな星の輝きのことだった…そんな風にも受けとめられる。
「明るい光のもとで」今日のメッセージタイトルである。この言葉から私たちは太陽のような強い光をイメージする。しかしイエス・キリストによって与えられる「明るい光」とは、夜の闇に輝く満天の星空のような光なのかも知れない。