2020年9月20日(日) 恵老祝福礼拝
Ⅰペトロ1:22-25
私たち人間は「自分の命には終わりの時がある」と意識している。人間は「死を発見した生き物」なのである。この死の自覚から、ひるがえって「今という時をいかに生きるか」という発想も生まれる。ここに人間性の豊かさが生まれるのである。
人生の終わりを考えずに生きるということは、終わらない映画や野球の試合を見ているようなものだ。もしも終わりがなかったら、私たちは映画や野球を楽しめないだろう。終わりがあるからこそ、それまでの時間が面白く、貴重で尊いものになるのである。私たちの人生も同じ、終わりを知るからこそ今の命が輝くのである。
しかし命の終わりを知ることは私たちにとって悲しみでもある。死んだらもう会えないと知ってからである。終わりを見つめて生きることは、一方では人生の豊かさを、一方では悲しみをもたらす。この両方の思いに対し、道を示してきたのが宗教の世界だ。
今日の聖書箇所・ペトロの手紙Ⅰにはイザヤ書40章、バビロン捕囚後期に活躍した「第二イザヤ」の言葉が引用されている。イザヤもここで人間の命には終わりが来ることを語る。「肉なる者は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。」人生の無常観を漂わせるような言葉である。
しかしイザヤは「人の命の虚しさ」を語ろうとしているのではない。続けてこう語られる。「草は枯れ、花はしぼむ。しかし私たちの主の言葉は永遠に変わることがない」。「私たちが死んでも神さまは生きておられる」ということである。
限りある命を生きる人間が、自分の存在をすべての中心に置くとき、やがて訪れる死は虚無であり不安の源となる。「すべてが終ってしまう」からだ。しかし永遠に変わることのない神さまを中心に考えていくならば、この世界は何も変わらずに続いていく。その永遠に変わることのない方との関わりの中に、自分もまた置かれている…そう受けとめることによって死の虚しさを乗り越える。イザヤは、捕囚によって人生の絶望を味わってきた人々に向けて、そんな信仰の世界を示しているのである。
「永遠なるものと結ばれて」。今日のタイトルである。「永遠なるもの」とは何だろう?「それは命の源である神さまであり、神から遣わされた救い主イエス・キリストだ。」それが聖書の「公式見解」だ。イザヤの言葉を引用したペトロの思いもそこにあるのだろう。しかし準備をしながら「もうひとつある」という思いが沸いてきた。それはその「永遠なるもの」を信じる者同士の交わりである。人間同士の交わりが永遠なのではない。「永遠なるもの」によって結ばれた交わりだから、永遠なのである。
作家・立花隆氏が南米のジャングル奥地の村を訪ねたとき、村長に尋ねた。「人は何のために生きるのでしょうか」。村長はこう答えた。「第一に、人は仲間と共に向上するために生きているのだ。第二に、人は死ぬために生きているのだ」。ここには仲間への深い信頼がある。そして仲間と大地を信頼し、向上していく人生においては、死は虚無ではなく、ひとつの充実としてとらえる世界観がある。
死んだ後の世界を見た人はいない。だから不安があるし、自分という存在が消えてしまう恐れもある。けれども「私たちは永遠なるものに結ばれている」― そのことを信じよう。私たちに命を与えてくださった神さま、その命の歩みを豊かに導いて下さるイエス・キリスト、そしてその神とキリストを信じる仲間がいる。だから「きっとだいじょうぶ」。そう信じて、すべてを神に委ねよう。
♪「きっとだいじょうぶ」
いつか終わりの日が来て
天に帰ることになっても
きっとだいじょうぶ
神さま迎えてくれる
終わりを知らなかった時よりも
終わりを知ったそのことで
きっと、きっと、いのち輝く
きっと、きっと、あなたはだいじょうぶ
(これもさんびか 詞・曲/川上盾)