『 心の中にキリストを 』

2020年9月27日(日)
歴代誌下7:11-16, エフェソ3:14-21

コロナ状況の中で、「礼拝とは何か、教会とは何か」ということを考えさせられている。最初のころ「不要不急の外出は控えましょう」ということが言われていた。当初は「礼拝は不要不急か?そうではないはずだ!」という思いで礼拝を続けたが、次第に「礼拝堂に集まる形はお休みします」という判断をせざるを得なくなった。離ればなれの「サテライト礼拝」が始まった。そこで感じたことは、「離れていても心をつなげることはできる」ということだった。

イエスの時代、人々の礼拝の場所はシナゴーグと呼ばれる会堂であった。その始まりはバビロン捕囚であったという。神殿に集まれない中で、人々は離れた所からエルサレムの方を向いて礼拝をささげた。シナゴーグは「サテライト礼拝」の場所だったのだ。

旧約の箇所は、ソロモンの神殿に対する神の祝福の言葉である。「疫病の中で祈るとき、わたしはあなたがたを癒す」(13-14節)という言葉が今の状況と重なる。神殿は神が民と共にいて下さることを確認する場所なのだ。

しかし、その神殿が完成した時、ソロモンは「人が建てた物などに主はお住まいになられない」と祈った。神は遠く離れておられる。神殿は人間にとって、祈りを通して遠く離れた神との交わりを確かめる場所でしかない、ということだ。その意味で、神殿もまた「サテライト」なのである。

一方、エフェソの手紙でパウロは「あなたがたは主における聖なる神殿です」(2:21)と記す。Ⅰコリント3:16にも同様の言葉がある。エルサレムの神殿でもない、シナゴーグでもない、神とキリストを信じるあなたがたこそが神殿なのだと語るのである。

はたしてパウロは、人間という不完全なものを「聖なるもの」として過大評価をしているのだろうか?そうではない。むしろ人々が自堕落になり、空しい生き方に染まってしまっている状況に対し、戒める意味で「あなたがたは神の神殿だ。自分を空しくせず、自覚を持って生きよ!」と語るのである。

弱い罪人である人間が「聖なる神殿だ」とパウロは語る。何を根拠にそう語れるのか?それは、そんな罪人の救いのために、神がイエス・キリストがつかわして下さったと信じていたからだ。今日の箇所に「心の中にキリストを住まわせ」と記されている。聖霊の導きにより心の中にキリストを住まわせて下さるとき、不完全な罪ある存在が、聖なる神の住まいとさせられていく…ということである。

では「心の中に住まわせる、ひとりひとりが神の神殿となる」そのことで何が起こるのだろうか。その言葉にふさわしい立派な人間になれ!ということだろうか。しかし私たちはそんなに急には変われない。理想と現実とは違う。私たちは弱いのである。そんな私たちにとって「聖なる神殿にふさわしい立派な人間になれ!」という言葉は、大きなプレッシャーともなる。

では何も変わらなくていいのか。心の中にキリストを住まわせることで、私たちが何も変わらない罪人のままだとするならば、はたしてそこに信仰を抱く意味があるのだろうか?

ヒントになる言葉がある。「心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかり立つ者としてくださる」(17節)。キーワードは「愛」。イエスの愛に触れ、その愛を大切に思う気持ちが自分の中に生まれれば、とりあえずそれでOK。いきなりイエスのような愛には生きられる人はいないだろう。でも、たとえ最初は不完全でも、求め続けていれば、やがてキリストの愛の広さ・深さへと導かれていくのである。そのとき、ひとりひとりが「神のすまい=神殿」となる。