『 分かちあう命の糧 』

2020年10月4日(日) 世界聖餐日
使徒言行録4:32-35

初代教会には「貧しい者がひとりもいなかった」と記されている。お金持ちの集団だったのか?そうではない。貧しい人もいたが、裕福な人が自分の所有権を主張せず、分かち合っていたからだ。「原始共産制」、初代教会は「分かち合う共同体」だったのだ。

本来人間は自己中心的な存在である。手に入れたものは自分の物として手放そうとしない、そんな生き物としての本能がある。しかし初代教会ではそうはならなかった。これは一つの奇跡である。どうしてそのような奇跡が成立したのか。それは、彼らの信じるイエス・キリストが分かち合う人だったからだ。

「五千人の給食」の物語が象徴的である。多くの群衆に対して手元にあるのはたった5つのパン。ほんの少しずつ分け合ったとしてもあっという間になくなってしまう。手の中に無くなったパンを、それでもちぎって渡し続けようとするイエスの姿を見て、人々は「パンではない何か」を与えられていった。それは「分かち合うことの豊かさ」である。

イエスのその分かち合う姿は、人々の印象に残った。そして初代教会でもそのような分かち合いが始まっていった。「主の食卓」の儀式も、そんな思いから始められていったに違いない。聖餐式は、「最後の晩餐」だけが唯一の起源ではないのだと思う。

ところで、現在多くの教会では聖餐式を自粛している。前橋教会では「割かれた体と流された血潮を覚える祈りの時」として聖餐式を行なっている。目の前でパンをさき、ぶどう酒を杯に注ぐ。それを見て、心の中でキリストを味わうのだ。化体説ではなく、象徴説の考え方を取るならば、イエスを想起する交わりは可能だと思うのだ。

今日は世界聖餐日。しかしコロナ状況がまだ続く中で、今回も「食べない聖餐式」を行う。今年は、「食べないことを分かち合う」そんな思いで聖餐にあずかりたい。「食べないことを分かち合う」 ― それはどういうことか?

日本に住む私たちは、パンとぶどう酒(ジュース)はスーパーで簡単に手に入れることができる。しかし世界には、聖餐式のパンどころか、日々の食卓のパンすら満足に手に入れることができない状況がある。そのような状況が少しでも作り変えられていくことを願い、祈りを込めながら「食べないこと」に意味を見出すということである。

「奪い合えば足りなくなる。分かち合えば満たされる。」この言葉は以前ライブハウスで知り合った共愛学園出身の女性が「共愛で教わった中で一番心に残ってること」として語っておられたものだ。本当にその通りだと思う。奪い合えば足りなくなり、小さな争いが起こり、やがて戦争に至る。大地がもたらしてくれる命の糧、それは奪い合うものではなく、分かち合うものなのだ。