2020年10月11日(日)
ダニエル書12:1-4,Ⅱコリント5:1-10
私たちが映画やドラマを観るとき、結末を先に知らされると興ざめする。スポーツの試合なども、結果を知らないからこそ、そこに至る経過をワクワクしながら楽しめるのだ。
一方、先行きの見えないことに不安を抱く心理もある。ホラー映画の結果を先に知りたがる若者がいるという。初めての場所まで道のりを、グーグル・ストリートビューで下調べするのも同じ心理だ。私たちの心の中には、知らないことをワクワクして楽しむ心理と、知らないことに不安を抱く心理がないまぜになっている。
先行きのことが見えない不安…その最たるものが「死んだらどうなるか」ということだろう。その不安に対して道筋を与えてくれるのが宗教の世界である。ユダヤ教・キリスト教の「天国」、仏教の「極楽浄土」、それらはいずれも「この世」ではなく、「あの世」についてのお話だ。
今日の聖書箇所は、旧約も新約もいずれも「あの世」に関する内容である。ダニエル書は、物語の舞台はバビロン捕囚の時代だが、実際に記されたのはヘレニズム期・セレウコス王朝の時代であると言われている。バビロン捕囚とセレウコス王朝に共通するもの、それは「宗教弾圧の時代」である。
信仰を固く守る故に、殉教の死を遂げざるを得ない…そんな状況に置かれた人々に、ダニエル書は「終わりの日」「最後の審判」の出来事を示す。「信仰を守り“いのちの書”に名を記された人には、神が永遠の生命が与えて下さる…だからこの苦難の時を耐えろ」と。
一方のⅡコリントでも、パウロは「あの世」について語る。苦難に満ちた「この世」と、キリストと共にいられる「あの世」とを対比的に語り、「あの世」へのあこがれを記すのである。
「『この世』では苦しみがあっても、『あの世』では救われる…」そう信じる信仰は強いものである。それは現実の苦難を耐える力を与えてくれる。しかし一方では危なさも感じる。「信じて耐えれば救われるのだから、ひたすらその日を待つ」という生き方は、一歩間違うと現状肯定に流れてしまうからだ。
1960年代のアメリカで、黒人差別の撤廃を訴える公民権運動が盛んだった時代、デモ行進に加わる黒人たちに向かって「そんなムダなことはやめて、教会に行ってひたすら来世の幸せを祈れ!」と言い放った差別者たちがいたという。「あの世」への過度な期待は、「この世」での現状肯定と、泣き寝入りの人生を生み出してしまう。
パウロは泣き寝入りを勧めているのではない。「あの世」へのあこがれを抱きつつ、「この世」を心豊かに生きようとした人だ。なぜならイエス・キリストはその「この世」にこそ、救いをもたらしに来て下さったからだ。「この世」をいかに心豊かに生きるか。それが私たちの大切な課題なのである。
では死後の世界への不安はどうすればよいか。私たちは「あの世」に行ったことがない、見たことがない。だから明確なビジョンは示せないが、初めて訪れる街をワクワクして楽しむような思いで臨めばいいのではないだろうか。自分の思い描く通りに事が進むのを願うのでなく、分からないことについては神に委ねればよいのではないか。
パウロは「私たちは体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」と語る(Ⅱコリ5:9)。“生きる時も、死の時にも、いつも主は共におられる”(カナダ合同教会信仰告白)ということである。そんな信仰を抱きながら、「この世」と「あの世」のあいだを、共に歩んで行こう。