『 キリストに捕らえられて 』

2020年10月18日(日)
フィリピ3:7-21

50年以上にわたり「ネコ嫌い」で生きてきた。姿を見ると「虫唾が走る」ほどであった。しかしある日出張から帰ると、子ネコがいた。ネコを飼いたがっていた妻が留守中に既成事実を作ったのだ。仕方なく始めたネコとの暮らし。今は慣れてしまって、大切な家族の一員となっている。

かつて敵対していた人と、良好な関係になるということがある。「大嫌い!」が「大好き!」になる経験だ。初代教会の有力な伝道者であったパウロと、キリスト教との関係もそういうものだった。

彼はもともとはユダヤ社会のエリートであるファリサイ派の律法学者であった。モーセによって神から与えられた律法(宗教戒律)を、忠実に守ることによって神の前に正しく生きることができる… それがパウロたちユダヤ教指導者の考え方であった。

彼らの役割は律法の知識に乏しい庶民を教え導くことだった。もう一つ、庶民が律法に反する生き方をしていないか、監視することであった。

譬えてみれば、企業で規則を守りマニュアル通りに働き、ノルマを次々にこなしていくことに喜びを感じる、といった生き方、そして規則やマニュアルから逸脱し、ノルマを達成しない同僚がいると、それをチェックし社長に知らせる…そんな生き方でもあった。こうして、人を救いへと導くはずの宗教が、逆に人々の日々の暮らしを息苦しいものにしてしまっていたのだ。

そんな彼らの前に現れたのがナザレのイエスである。イエスの生き様は彼らにとって目障りなものだった。安息日に労働をする(麦の穂摘み、病人の癒し)。罪人・徴税人・遊女たちとも交わり一緒に宴会をする。「ファリサイ派の人よりも、徴税人や遊女の方が先に神の国に入る」と宣言する。それはパウロたちエリートが築き上げてきた社会の秩序を乱すふるまいとして映った。

「イエスなんか、大嫌い!」それがパウロの表向きの顔であった。しかし、その心の奥底にはそれとは別のもうひとつの思いがあったのではないだろうか。

イエスの生き方、それは時に規則を逸脱し、マニュアルを度外視し、ひとりの顧客にとことん向き合うような生き方であった。当然大きな業績は残せないが、そのひとりの顧客が心から喜んでいる。型通りの生き方ではたどり着けない喜びがそこにある。パウロはそれが気になって仕方なかったのではないだろうか。

その思いが弾けた時、彼の生き方は180度変えられた。「大嫌い!」は「大好き!」という感情の裏返しであったのだ。イエスによって人生を変革され、伝道者となったパウロ。かつてのユダヤ教エリートとしての自分の実績を「ちり・あくた(原意は排泄物)」と思うほどになったのである。

何がパウロを変えたのか?それはイエスのように、自分の命を投げ打ってまで隣人のために生きる姿、それほどまで人を大切に思うことのできる力、すなわち「愛」である。愛を大切にして生きる人生の喜びは、どんな財産や名誉や地位をも凌ぐものである…。パウロはその愛をイエスから学んだ。パウロはキリストに捕らえられたのである。


とらえたまえ われらを
宿りたまえ われらに
とわの愛を 注ぎて
地を御国と したまえ

(讃美歌521)