2020年10月25日(日)
マタイによる福音書10:22-31
私は常々「信号は安全を守るためにある。信号を守るために人間がいるのではない。安全が確認されるなら信号という機械に従う必要はない」という理屈をこねて、時々信号無視をしていた。しかし町内の小学生下校見守りボランティアを始めてから、信号を守るようになった。「そういうボランティアをしている人間が信号を無視したのではシャレにならんやろう」と人の目を気にするようになったからである。
私たちが自分自身の行動を律したり自制したりする時、何を基準にそうしているだろうか?自分の考えではなく、人の目を気にすることが結構あるのではないだろうか。文化人類学者のルースベネディクトは日本社会を「恥の文化」と分析した。確かに日本社会は、横並び意識が強く、人の目・世間の目を気にする中で行動を選択する傾向があるかも知れない。
人の目を意識するのは悪いことばかりではない。「日本人はマナーがよい、日本は治安がよい」とは外国人観光客の漏らす感想である。しかしあまり過度に気にする時、大切な判断を間違うことにもなる。太平洋戦争時代の日本では、世の流れに流され、人の目を恐れて忖度する中で誤った道に進んでしまった歴史がある。
これに対して西欧社会は「罪の文化」、すなわち神の目を意識する社会とされている。「体を殺しても魂を殺せない者どもを恐れるな」とイエスは言われる。確かにイエスはユダヤの長老もローマ帝国の総督も恐れなかった。「むしろ魂も体も地獄で滅ぼす方を恐れよ」とも言われる。これは神さまのことだろうか?ならば神さまは人の魂を地獄で滅ぼされる方なのか?
そうではない。イエスの示された神は私たちの罪を赦し、救おうとされる神である。私たちひとりひとりに目をとめ、小さなスズメを見つめる以上の眼差しで私たちを見つめて下さる神さまなのである。
その神を「おそれよ」と言われる。それは「恐れ」ではなく「畏れ」の感覚、すなわち偉大な愛に思わず膝をかがめる振舞いである。
イエスは神を畏れて生きられた。そのことがあの人を恐れない生き方を生み出した。イエスに敵対した人々は、策を巡らしイエスを十字架に架けて殺してしまった。しかしその魂や志までも滅ぼすことはできなかった。イエスの魂・志は復活のいのちとなって、弟子たちや信じる人々に受け継がれ、語り継がれていったのだ。
弟子たちがイエスとまったく同じように生きたわけではない。しかし弱い彼らなりに踏みとどまり、イエスの福音を語り始めていった。人を恐れず、神を畏れる人間となったのである。
私たちも知らず知らずのうちに、人を恐れ、忖度して生きてしまうことがあるかも知れない。そんなときはイエスの言葉と生き様を想い起そう。